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1203年に日本の鎌倉幕府内部で発生した政変 ウィキペディアから
比企能員の変(ひきよしかずのへん)は、鎌倉時代初期の建仁3年(1203年)9月2日、鎌倉幕府内部で起こった政変。2代将軍源頼家の外戚として権勢を握った比企能員とその一族が、北条時政の謀略によって粛清、族滅された。比企能員の乱、比企氏の乱、小御所合戦とも。
鎌倉幕府初代将軍である源頼朝の死後、18歳の嫡男頼家が跡を継ぐが、3か月で訴訟の裁決権を止められ、十三人の合議制がしかれて将軍独裁は停止された。合議制成立の数か月後(頼朝の死から1年後)、将軍頼家の側近であった梶原景時が御家人らの糾弾を受けて失脚し、一族とともに滅ぼされる(梶原景時の変)。侍所所司として将軍権力を行使する立場で御家人たちに影響力のあった景時という忠臣を失ったことは、将軍頼家に大きな打撃となる。
景時亡き後、頼家を支える存在として残されたのは、自身の乳母父であり舅でもある比企能員であった。能員は、頼朝の乳母でその流人時代を支えた比企尼の養子として比企氏の家督を継ぎ、頼朝の信任を受けて嫡男頼家の乳母父となった。また能員の娘若狭局は頼家の側室となって嫡男一幡を産み、比企氏が将軍家外戚として権勢を強めていた。
この比企氏の台頭に危機感を持ったのが、頼家の母北条政子(尼御台)とその父時政である。時政は頼家の後ろ楯となる勢力からは外されており、代替わりとともに将軍外戚の地位から一御家人の立場に転落していたのである。
以下は鎌倉幕府末期に得宗専制の立場から編纂された史書『吾妻鏡』の描く事件の経過である。
こうして、頼家の外戚として権勢を誇った比企一族は、たった1日で滅亡してしまった。
事件当時に記録された京都貴族の日記、その他の文献史料によれば、事件の経過は『吾妻鏡』の記述と異なっている。
藤原定家の日記『明月記』によると、建仁3年(1203年)9月7日に鎌倉からの使者が到着して、頼家が1日に死去したと報じ、その後継をめぐって家臣の間に権力をめぐる争いが起こり、頼家の子が頼家の祖父時政に殺されて、頼家に心を寄せた在京御家人も討たれ、また朝廷に実朝の将軍就任要請がされたことが記されており、同様の記録が近衛家実の『猪隈関白記』、白川伯王家業資王の『業資王記』などにも見られる。頼家が死んだものとして実朝の将軍就任を要請する使者が京都に到着した9月7日は、頼家が出家させられた当日である。
鎌倉から京までの使者の進行速度からすれば、使者は9月1日か2日に鎌倉を出発しており、まさに比企一族が滅ぼされた前後である。使者が送られた時点では頼家はすでに危篤であり、一幡・比企能員の殺害が予定されていたものと考えられる。
また、事件当日に時政邸を警護した小代行平の子孫が記した置文の『小代文書』には、比企能員が単身、平服で時政邸を訪れたことが記されている。『吾妻鏡』で頼家与党として処罰されたとされている中野能成は、比企氏が滅ぼされた2日後の9月4日の日付で「比企能員の非法のため、所領を濫妨されたそうだが、特別処遇を与える」という時政による所領安堵の書状が『市河文書』に残されている。時政の子北条時房は頼家の近習であり、この能成とは深い関係があった。
慈円の『愚管抄』によれば、頼家は大江広元の屋敷に滞在中に病が重くなったので、8月30日に自分から出家し、あとは全て子の一幡に譲ろうとした。これでは比企能員の全盛時代になると恐れた時政が、9月2日に能員を呼び出して天野遠景に組み付かせ、仁田忠常に刺し殺させた。そして広元の屋敷に武士を送って頼家を監視下に置き、同時に小御所にいる一幡を殺そうと軍勢を差し向けた。一幡は母が抱いて逃げ延びたが、残る比企一族は能員の息子たち、糟屋有季、笠原親景、渋河兼忠、婿の児玉党など皆討たれた。また忠常は頼家の側近として特に重んじられた者だったが、頼家の状態を知らなかったため能員を討ったものの、5日に侍所に2人で出仕していた北条義時と戦って討たれた。一方、出家直後から徐々に回復した頼家は、一幡の世になって皆が仲良くしているだろうと思っていたところ、比企氏が滅ぼされた2日にこれを聞いて激怒。病み上がりの状態で太刀を手に立ち上がったが政子がこれを押さえ付け、10日に修禅寺に押し込めてしまった。さらに11月3日になって一幡は義時の手勢に捕らえられ、義時の郎党の藤馬という者に刺し殺されて埋められたという。
『愚管抄』は比企能員の縁者(能員の聟・糟屋有季の遺族)から伝えられた情報を元に記されている。『吾妻鏡』と『愚管抄』を比較した際、『吾妻鏡』にはいくつか問題点が浮かび上がる。それは以下の通りである[1]。
事件の発端となった能員と頼家の密謀そのものが、事件後に北条氏によってでっちあげられた捏造であったとする説がある。この事件以後、主に北条氏と有力御家人との間の政争が続くため、この事件をその発端と考える見方である。この説において見逃せないのは、この事件の背景に専制を強める将軍およびその近臣勢力と東国有力御家人との対立が考えられることである。後世に鎌倉幕府の執権職を世襲する北条氏であるが、この事件当時それほど大きな力を持っていたわけではなかった。表面的に北条氏の活躍が目立つものの、実際は東国有力御家人の諒解のもとにこの事件は進行したと考えられる。
『吾妻鏡』の記述によれば、比企氏討伐も頼家の幽閉も政子の「仰」であったとされる。また、事件の発端となった頼家死後の一幡と千幡の諸国守護の分掌も、政子の積極的な関与が見て取れる。実朝の代になっても様々な場面で政子が決定的な役割を担っていることも多く、北条氏を含めた東国御家人勢力とは別個に、調停者としての政子が存在していたとも考えられる。
また、この時期の政子の地位について注目すべきものとして以下の二つがあげられる。一つは、頼朝の後家として頼朝の法事を含め幕府の宗教体制の中心的存在であったこと。二つは、幕府の実務官僚であった大江広元ら京下りの吏僚たちを掌握していたことである。彼らは幕府内にあって将軍権力と有力御家人の間の中間勢力をなしていたと言われており、彼らを掌握していたからこそ政子は調停者として振る舞うことが出来たとも考えられる。
以上をふまえれば、頼朝死後の鎌倉幕府将軍の権力は、将軍職は頼家が継いだものの、生前の頼朝が持っていた地位と権力は実際は政子と頼家により分掌されていたと考えることもできる。そして、政子の関与により頼家から実朝への将軍職委譲がなされたという事件の側面を見ることができるとともに、鎌倉幕府の権力構造を考える上で、のちの執権職につながる役割を考察する材料となる。
「比企能員の変」による比企氏の没落は、比企氏が勢力圏としていた北陸地方にも影響を及ぼした。遡って木曾義仲が没落した頃、寿永3年(1184年)4月に源頼朝は比企朝宗を北陸道勧農使に任命しており、これによって比企氏は義仲の勢力圏であった信濃・北陸道一帯に進出していた[2]。しかし、比企朝宗の進出は北陸道諸国に混乱を呼び、文治2年(1186年)6月17日に越中国般若荘の領主である内大臣徳大寺実定が武士の押妨の排除を要求したことが決定打となり、同年6月21日に頼朝より地頭停止令が発令されることとなった[3]。
この地頭停止令は源頼朝が京の朝廷に対して妥協した結果発令されたものであるが、頼家への代替わり後に比企氏はこの協定を覆す形で北陸道諸国の再掌握を図った[4]。越中国では比企氏の分家と見られる太田朝季が越中守護(もしくは守護代)を標榜し、石黒荘では正治3年(1201年)7月前頃に山田郷で惟憲なる人物が地頭に補任され、翌年には太田朝季が藤原定直に対して「地頭沙汰事」を安堵したとの記録が残っている[5]。一連の比企氏の動きは頼朝時代の地頭停止令を一方的に無視するものであり、弘瀬・山田郷地頭領家の仁和寺より抗議を受けた源頼家が、7月4日付請文で山田郷地頭補任を否定する事態にまで至っている[4]。
「比企能員の変」が勃発すると、越中国でも「朝季とその郎従が謀反を企んでいる」ことが問題視され、政変を主導した北条時政は比企氏残党を殲滅すべく、越中の国人に対しても招集をかけた[6]。この翌年、山田郷地頭の惟憲が「科」があったことを理由に仁和寺の申し入れによって地頭職を停止された事、太海・院林両郷の地頭職も停止された事は、まさに太田朝季に加担したことにより討伐されてしまったためと考えられている[4]。一方、弘瀬郷地頭の定直は折あしく上京中であったが、急ぎ9月8日に越中に帰国し、国人仲間のとりなしを得て起請文を出し、同年11月3日に引き続き本領を安堵することを認められたという[6]。
越中中世史研究者の久保尚文は、上記の経緯から「比企能員の変」が単なる北条氏と比企氏の内部抗争というだけではなく、公武間の抗争を再燃させかねない路線を取る比企氏とそれを批判する北条氏の対立という側面を有していたことを指摘している[4]。
頼家は変の翌年の元久元年(1204年)7月18日、伊豆国修禅寺にて23歳で没した。『吾妻鏡』は頼家の死因については一切触れず、19日に飛脚から頼家死去の報があったことを記すのみである。
『愚管抄』や『武家年代記』『増鏡』によれば、頼家は北条義時の送った刺客[注釈 2]により襲撃され、激しく抵抗したところを首に紐を巻き付けられ、陰嚢をとって刺し殺されたという。『保暦間記』によると入浴中に襲われたとある。
宗悟寺(埼玉県東松山市)には「比企一族顕彰碑」が建立されている[7]。比企能員の変から820年目の2023年(令和5年)9月2日には比企氏を供養する法要が営まれた[7]。
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