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室町時代・戦国時代の公卿、学者。吉田兼倶の三男。非参議正三位・少納言、贈正二位。『論語聽塵』など。出家 ウィキペディアから
清原 宣賢(きよはら の のぶかた)は、戦国時代の公卿・学者。従二位・吉田兼倶の三男。明経博士・清原宗賢の養子。官位は正三位・侍従。
文明7年(1475年)吉田神社祠官神道家・吉田兼倶の三男として誕生。明経博士だった清原宗賢の養子として入る。
主水正・大炊頭・六位蔵人を経て、明応9年(1500年)従五位下に叙爵。明応10年(1501年)世職である少納言に任ぜられるとともに、直講を兼ねて宮中に仕えて講義を行い、明経道を整理して和漢にわたる著作をおこなう。大永元年(1521年)従三位に叙せられて公卿に列すとともに、20年に亘って務めた少納言から退いた。大永2年(1522年)侍従に任ぜられ、大永6年(1526年)正三位に至る。享禄2年(1529年)に宮仕えから身を引き、大徳寺で出家・剃髪して環翠軒宗武と号し、学者としての活動に専念した。
天文19年(1550年)7月12日に越前国一乗谷にて薨去。享年76。
国学者・儒学者で歴史上屈指の碩学とされ多くの著作があるが、そのなかでも各種の抄物(『職原私抄』『日本書紀神代巻抄』『伊勢物語惟清抄』等)は現在も多く伝わり、日本国学研究の基礎資料となっている。なお、清原家は四代後の秀賢から舟橋家を称したため、宣賢を船橋大外記宣賢と記した史料もある。
注記のないものは『公卿補任』による。
尊卑分脈[3]によれば、幕府奉行人清貞春(筑後守)の養子清総昌(清四郎)は宣賢の子。また「吉田船橋家譜」[4]によれば、上記の妙佐はこの清四郎の子とする。
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