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日本の江戸時代後期~明治時代後期の大名・知藩事・子爵・政治家。常陸谷田部藩8代藩主細川興建長男で、谷田部藩9代藩主→下野茂木藩主。従五位下玄蕃頭 ウィキペディアから
細川 興貫(ほそかわ おきつら)は、江戸時代末期の大名、明治時代の華族、政治家。位階爵位は正三位子爵。常陸国谷田部藩9代藩主、初代藩知事、貴族院の子爵議員などを歴任。
天保3年(1832年)12月、常陸谷田部藩8代藩主・細川興建の長男として誕生した。嘉永5年(1852年)9月6日、父の隠居により家督を継ぎ、従五位下・玄蕃頭に叙位・任官する。藩政では凶作が続いて百姓一揆も頻繁に起こり、藩財政も苦しかったといわれる。
慶応4年(1868年)3月、家臣119名を率いて上京し、京都警護を務めて新政府に恭順の意を示した。明治2年(1869年)6月22日に版籍奉還で谷田部藩知事となる[4]。明治3年(1870年)12月、藩庁を茂木に移して、明治4年(1871年)2月8日に茂木藩と改名し、茂木藩知事に任じられた[4]。直後の7月14日、廃藩置県により知藩事を免職された[4]。
版籍奉還の際に定められた家禄は、現米で385石[5][注釈 1]。
明治9年(1876年)の金禄公債証書発行条例に基づき、家禄と引き換えに支給された金禄公債の額は、1万4203円67銭3厘(華族受給者中289位)[7]。
明治17年(1884年)7月7日の華族令施行によって華族が五爵制になると翌8日に旧小藩知事[注釈 2]として興貫が子爵に叙された[9]。
明治23年(1890年)7月10日、貴族院議員に選ばれて、明治37年(1904年)7月10日まで2期務めた[10]。明治40年(1907年)9月11日、東京府浅草の今戸で死去した。享年76。墓所は東京都練馬区桜台の広徳寺。戒名は興信院殿正三位勲四等子爵貫忠宗徹大居士。
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