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のこぎり屋根工場
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のこぎり屋根(のこぎりやね)とは、鋸の歯の形に似た三角屋根の建物。主として紡績・織物・染色関係の産地に多く見られる工場建築である[1]。
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「のこぎり」・「ノコギリ」・「鋸」または「ギザギザ屋根」と表記も様々である。煙突とともに町並みや農村の風景に溶け込んでおり、工場といえば「のこぎり屋根」が、工場の形の象徴となっている。英語では、「northlight shed」あるいは「saw tooth roof」と表記している[2]。
説明
歴史
のこぎり屋根工場は、イギリスで動力織機が設置された1820年代後半から30年代にかけて出現し、日本では1883年(明治16年)大阪紡績三軒屋工場がイギリス帰りの技術者の山邉丈夫の指導で建てられたのが始まりといわれている。その後、千住製絨所(1884 - 85年(明治17 - 18年)竣工・東京府北豊島郡)、倉敷紡績所(1889年(明治22年)竣工・岡山県窪屋郡)、日本織物株式会社桐生工場(1890年(明治23年)竣工・群馬県山田郡)など各地にのこぎり屋根工場が建設された。
初期ののこぎり屋根工場は、外国製の機械設備を導入した洋式工場であった。のこぎり屋根工場が多く残っている群馬県桐生市では、明治期13棟、大正期36棟、昭和戦前期175棟、1945年(昭和20年) - 1960年(昭和35年)96棟が確認され、1969年(昭和44年)を最後に建てられなくなったとされる。はじめ電力による動力織機の導入は、原動機からシャフトとベルトを介して複数を同時稼働させる集団運転方式であった。このため工場内部に高さが求められ、採光にも優れているのこぎり屋根工場が建設されたといわれる。社会情勢や景気動向にも建築数が左右されていたようである[2]。
特徴
のこぎり屋根工場は、屋根の鋸の刃の短辺に当る部分に大きな採光面を取り、内部は奥まで明るく、各地の紡績・撚糸・織布・染色・修整などの繊維産業の工場で広く採用されている。上部採光面はほとんどが北向きなのは、工場内への直射日光の差し込みを抑え、間接光のため日中の光量の変化が少ない安定した一定の光源が得られるのが、主な理由である。そのため、布の柄や繊維の組織、色合わせや色の組合せを見るのに適した建物であった。上部採光面が南向きなら日差しの角度が変化し、織物が日に焼ける心配もある。わずかにある南向きの理由は不明である[2]。

注釈
本節の記述はこの文章の脚注記載を出典とする[3][4][5]。
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欧州の建築
ノコギリ屋根はイギリスの産業革命期に発達した繊維産業において織物工場や染色工場の建物などで用いられるようになった屋根構造である[1]。ノコギリ屋根の屋根構造では鋸歯の歯形の傾斜部分、主に北側屋根から採光することで日中の工場内の明るさを変動が少なく均一にできるようにしている[1]。
イギリス最古の紡績工場とされる1827年建築のMOSCOW MILLでも自然光による採光を行うノコギリ屋根が採用されている[1]。この建物はOSWALDTWISTLE MILLSと名を変えて資料館と生活雑貨のショッピングセンターとして利用されている[1]。
日本の建築
要約
視点
のこぎり屋根工場分布
全国ののこぎり屋根工場を撮影している写真家の吉田敬子が、現在までに撮影した都道府県の一覧。[6]
福島県 | 郡山市、伊達郡川俣町 |
栃木県 | 足利市、佐野市 |
群馬県 | 前橋市、高崎市、伊勢崎市、桐生市、富岡市、吾妻郡中之条町 |
埼玉県 | 秩父市、本庄市、蕨市、入間市 |
東京都 | 八王子市、青梅市、西多摩郡奥多摩町 |
神奈川県 | 不明 |
新潟県 | 五泉市 |
富山県 | 富山市、高岡市、南砺市、射水市、下新川郡入善町、下新川郡朝日町 |
石川県 | 金沢市、小松市 |
福井県 | 勝山市、鯖江市、越前市 |
山梨県 | 富士吉田市、都留市、大月市 |
長野県 | 上田市 |
岐阜県 | 大垣市、羽島市、各務原市 |
静岡県 | 浜松市、磐田市 |
愛知県 | 岡崎市、一宮市、半田市、津島市、刈谷市、蒲郡市、稲沢市、大府市、愛西市、北名古屋市、知多郡東浦町、知多郡武豊町 |
三重県 | 四日市市、桑名市 |
滋賀県 | 長浜市、近江八幡市 |
京都府 | 京都市、京丹後市 |
大阪府 | 岸和田市、貝塚市、泉佐野市、和泉市、泉南市 |
兵庫県 | 西脇市 |
和歌山県 | 和歌山市 |
岡山県 | 倉敷市、井原市 |
広島県 | 福山市、御調郡向島町 |
徳島県 | 吉野川市 |
香川県 | 不明 |
愛媛県 | 今治市 |
高知県 | 安芸郡奈半利町 |
福岡県 | 久留米市 |
熊本県 | 熊本市 |
大分県 | 大分市 |
鹿児島県 | 不明 |
- 旧曽我織物工場(群馬県桐生市)
- 旧金谷レース工業(群馬県桐生市)
- 尾州ウール木曽川工場(愛知県一宮市)
- 稲葉製綱(愛知県蒲郡市)
- 鈴川織布(愛知県半田市)
- 枡塚味噌(愛知県豊田市)
- 足米機業場(京都府京丹後市)
- 丹後ちりめん歴史館(京都府与謝郡与謝野町)
- 神結酒造(兵庫県加東市)
愛知県一宮市の例

一宮市ののこぎり屋根工場は、その大半が操業を止めたが、ほとんどはかつて繊維関係の工場であった。織物工場は、工場内に直射日光の照射を防ぎ、糸や生地の色や状態の確認に適した安定的な光源を得るため、上部採光面を北に向けて建てたとされる。市内のこれまでの調査でも、ほとんどの建物が北面採光であった。
のこぎり屋根は、古くからの集落周辺によく見られるが、市街化が進んだ地域でも注意深く探すと、密集した住宅やビルの間などで確認できる。現存数は、分布調査を終えた市北部だけで2,500棟を超え、市内全域では3,000棟を超すものとみられる。工業統計によると、ピーク時の1972年(昭和47年)には、市内で8,276か所もの繊維関連工場があったという。8000を超える工場のどの程度が鋸屋根であったかは不明である。2005年(平成17年)時の同工場数は1,725か所まで減少している。
のこぎり屋根が市域にいつ伝播したかははっきりしていないが、鋸屋根が市域近辺で広がりをみせたのは、毛織物生産の進展とともに、電力の普及や織機などの動力化が進んだ大正期であったとみられる[7]。
尾西地方の「のこぎり屋根工場」の歴史

尾西地方での発祥は、明治期にあったかは不明であるが、大正初期に電力の普及と共に起町周辺の織布工場などで、手機から力織機の導入、毛織物生産とともに工場建築としてのこぎり屋根工場が建設された。1920年(大正9年)刊の『愛知県人士録』には、一宮市内では16ののこぎり屋根工場の写真が掲載されている。その後、戦前には各地で工場群を形成した。戦後は昭和40年代までのこぎり屋根工場は建設されたという。大規模な織物工場もあったが、2 - 3連の小規模な「機屋(はたや)」と呼ばれるのこぎり屋根工場が数多く建てられ、毛織王国を支えた。
近年は長引く繊維不況による廃業や老朽化、所有者の世代交代などで取壊しが相次ぎ、減少の一途をたどっている。日本最大の毛織物産地となり、地域経済の発展を牽引してきた尾西地方ののこぎり屋根工場は、今後産業遺産としての調査・記録や保存・活用が求められている[2]。同市の平松毛織のように、工場として使わなくなった鋸屋根建物をアートスペースやカフェに転用する例も出てきている[8]。
一宮市の現状
尾張のこぎり調査団「尾西地方の鋸屋根工場の一次調査」より。
木造のこぎり屋根工場のほとんどは、上部採光面の上に小屋根を出し、最終連の上部採光面の下に庇を設けることが多い。鉄骨造と鉄筋コンクリート造ののこぎり屋根工場の多くは、上部採光面が垂直、屋根面がスレートで葺かれ、外壁面をモルタルで塗り、小屋根がない場合が多い。
一宮市内の工場数の変遷
現在の一宮市域(旧尾西市・旧木曽川町を含む)における繊維産業の工場数の変遷をみるひとつの指針として、のこぎり屋根工場が密集していた旧中島郡起町域の起・小信中島・三条・大徳地区の尾西毛織工業協同組合加入者数の変遷を見てみる。大正期から昭和戦前期までは増加傾向であるが、終戦後の1944年(昭和19年)には、前年の国の指導で軍需工場への転業が約7%と廃業が約53%と多く、操業は半数以下となる。戦後戦前以上になり、復業や戦後に建てられたのこぎり屋根工場も多いのと符合するようである[2]。
※1944年(昭和19年)は、前年の政府の第二次企業整備令による軍需工場への転業または廃業で操業は大幅に減少し、下の表は地区ごとの変遷の内訳を表示した[9]。
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現在の工場使用状況(尾州地域、2016年現在)
繊維業稼働中の主な工場
再活用されている主な工場
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脚注
引用・参考文献
外部リンク
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