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プリメーラ・ディビシオン (アルゼンチン)
アルゼンチンのサッカー1部リーグ ウィキペディアから
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プリメーラ・ディビシオン(スペイン語: Primera División, スペイン語発音: [pɾiˈmeɾa ðiβiˈsjon])は、アルゼンチンのサッカー1部リーグであり、30チームが参加している。ボカ・ジュニアーズやCAリーベル・プレートなど、優勝回数の多いクラブは首都・ブエノスアイレスとブエノスアイレス州に集中している。
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歴史
要約
視点
組織名の変遷
- 太字は本流、斜字は本流と並列した支流
- 1891 アルゼンチン・アソシエーション・フットボールリーグ (Argentine Association Football League)
- 1893-1927 アルゼンチン・アソシエーション・フットボールリーグ (Argentine Association Football League)
- 1912-1915 アルゼンチンサッカー連盟 (Federacion Argentina de Fútbol)
- 1915-1919 アルゼンチンサッカー協会 (Asociacion Argentina de Fútbol)
- 1919-1926 アマチュアサッカー協会 (Asociacion Amateurs de Fútbol)
- 1927-1931 アルゼンチンアマチュアサッカー協会 (Asociacion Amateur Argentina de Fútbol)
- 1931-1934 アルゼンチンサッカーリーグ (Liga Argentina de Fútbol)
- 1931-1934 アマチュア/プロサッカー協会 (Asociacion de Fútbol Amateur y Profesionales)
- 1934- アルゼンチンサッカー協会 (Asociacion de Fútbol Argentino)
アマチュアリーグ時代 (1891-1930)
1891年、南米初のサッカー協会であるアルゼンチン・アソシエーション・フットボールリーグ(Argentine Association Football League、英語表記が正式名)が設立され、ヨーロッパ[注 1]以外では初となるサッカーリーグが開催された。しかし1891年の1シーズン開催したのみでアルゼンチン・アソシエーション・フットボールリーグは解散した。尚、アルゼンチンサッカー協会(AFA)は、このサッカーリーグを現在のプリメーラ・ディビシオンの前身大会と認めていない。
1893年には、現在のアルゼンチンサッカー協会(AFA)の起源となるアルゼンチン・アソシエーション・フットボールリーグ(Argentine Association Football League)が設立された。旧団体と同じ名称であるが組織としての繋がりはない。アマチュアリーグ時代にもっとも成功を収めたクラブはアルムニACであり、1900年から1911年までの12シーズンで計10回(4連覇1回、3連覇2回)優勝した。1912年にはクルブ・デ・ヒムナシア・イ・エスグリマ・デ・ブエノスアイレスのリカルド・アルダオ会長が、アルゼンチン・アソシエーション・フットボールリーグを離脱してアルゼンチンサッカー連盟 (Federacion Argentina de Fútbol) を設立し、CAインデペンディエンテ、エストゥディアンテス・デ・ラ・プラタ、CAアトランタなどがアルゼンチンサッカー連盟に移籍加盟。
彼らは1915年にアルゼンチンサッカー協会(Asociacion Argentina de Fútbol、現アルゼンチンサッカー協会とは別組織)に移行し、1919年にはアマチュアサッカー協会 (Asociacion Amateurs de Fútbol) となって1926年まで活動を行った。ボカ・ジュニアーズはアルゼンチン・アソシエーション・フットボールリーグにとどまったが、アマチュアサッカー協会にはCAリーベル・プレート、ラシン・クルブ、インデペンディエンテ、CAサン・ロレンソ・デ・アルマグロなど現在のビッグクラブが多数移籍加盟した。1927年にアルゼンチン・アソシエーション・フットボールリーグとアマチュアサッカー協会が合併し、アルゼンチンアマチュアサッカー協会 (Asociacion Amateur Argentina de Fútbol) となった。
プロ・アマ分裂時代 (1931-1934)
アルゼンチンのサッカーリーグでは、完全なプロ化を要望するクラブとプロフェッショナリズム解禁を求める選手の集団によって、協会のアマチュアリーグから1931年にプロリーグが分裂し、アルゼンチンサッカーリーグ (Liga Argentina de Fútbol = LAF) となった[8]。これに対して協会側にはアマチュアにとどまることを希望するクラブが多く、彼らはアマチュア/プロサッカー協会 (Asociacion de Fútbol Amateur y Profesionales) という新リーグを設立したが、両者の人気・実力差は歴然としていた。3年間はアルゼンチンサッカーリーグとアマチュア/プロサッカー協会が分裂状態で併存し、FIFAに加盟していない側のリーグであるLAFのプロリーグは非公式扱いされた。だが1934年に両リーグが和解・合併してアルゼンチンサッカー協会(Asociacion de Fútbol Argentino、略称AFA、現行組織)が設立され、両リーグともプリメーラ・ディビシオンの公式記録となった。なお、公式側だったアマチュアリーグの所属クラブはすべてプロリーグの下部カテゴリーに降格させられている[9]。
単一シーズン制 (1935-1966)
当初はブエノスアイレス、ブエノスアイレス大都市圏(特にアベジャネーダ)、ラ・プラタのクラブのみがアルゼンチンサッカー協会に加盟することができ、ロサリオやサンタフェなど地方の大都市に本拠地を置くクラブが加盟するのは後になってからである。1931年から1966年までは暦年(1月から12月)を1シーズンとし、ホーム・アンド・アウェーの総当たり戦を行って優勝クラブを決定した。しかし1936年シーズンだけは例外であり、1回戦総当たりのコパ・デ・オノール(前期リーグ)と1回戦総当たりのコパ・デ・カンペオナート(後期リーグ)を行った後に、オノールとカンペオナートの最上位クラブがコパ・デ・オロ(総合優勝決定戦)を戦った。この時代にはアルゼンチンの伝統的なビッグ5(ボカ、リーベル、インデペンディエンテ、ラシン・クルブ、サン・ロレンソ)によってリーグが支配され、36年もの間ビッグ5以外の優勝クラブが現れなかった[10][11][12][13]。1951年にはCAバンフィエルドが優勝に近付き、ラシン・クルブと同勝ち点でシーズンを終えたが、2レグ制の優勝プレーオフに敗れて準優勝だった[12]。
メトロポリターノとナシオナル (1967-1985)
1967年には単一シーズン制が廃止され、暦年の1年が2つの短期リーグ(メトロポリターノとナシオナル)に分割された。トルネオ・ナシオナルの創設者でアルゼンチンサッカー協会会長だったバレンティン・スアレスは、首都ブエノスアイレスなど一部の大都市圏のみがプロサッカーの利権を独占していることに批判的な考えを持っており、これを「連邦化 (全国への門戸開放)」するための改革を行ったのである[14]。メトロポリターノはこれまで通り協会に正式加盟しているクラブにのみ参加が許され、ナシオナルは地域大会を勝ち上がったいわゆる「間接加盟」または「内陸」と呼ばれる地方クラブにも開かれた[13]。この大会形式の変更はアルゼンチンサッカー界に大変革をもたらし、最初にエストゥディアンテス・デ・ラ・プラタが、やがてCAベレス・サルスフィエルドやCAチャカリタ・ジュニアーズやその他のクラブがビッグ5のリーグ支配を打ち破った。また優勝には手が届かなかったものの、CAタジェレスやラシン・デ・コルドバが準優勝を飾り、その後に州リーグからメトロポリターノに特別措置で参入を認められた。選手個人レベルでもこの時代にトルネオ・ナシオナルでの活躍をきっかけに、マリオ・ケンペスら多くの「内陸」育ちの選手がキャリアアップを勝ち取った。
1967年から1969年まで、メトロポリターノに出場するクラブはAとBの2グループに分かれ、各グループの上位2クラブずつが決勝トーナメントに進出して準決勝と決勝を戦った[13]。グループA/Bそれぞれの上位6クラブずつの計12クラブと、地区協会からの4クラブ[注 2]がナシオナルに参加し、1回戦総当たりで優勝クラブを決定した。また、グループA/Bそれぞれの7位と8位に加えて地区協会から4クラブが参加したプロモシオナル(昇進リーグ)も行われたが、1969年から地区協会のクラブはプロモシオナルに参加しなくなった。グループA/Bそれぞれの9位から12位のクラブはレクラシフィカトリオ(順位決定リーグ)に参加し、レクラシフィカトリオの成績によって降格クラブが決定された[13]。1970年にはメトロポリターノ/ナシオナルそれぞれの大会形式が修正され、メトロポリターノが1回戦もしくはホーム&アウェーの総当たり戦になるとともに、ナシオナルはプレーオフをともなうグループリーグ制となった。1974年、1976年、1979年のメトロポリターノは例外であり、プレーオフをともなうグループリーグ制で行われた[15][16]。1971年にはメトロポリターノの上位クラブがナシオナルの出場権を得る大会形式が廃止され、さらにプロモシオナルやレクラシフィカトリオも廃止されたため、メトロポリターノとナシオナルは出場クラブ資格や性格の異なる短期リーグではなく、性格の似通った2つの短期リーグとなった。1972年シーズンのみは旧方式が復活したが、1973年シーズンからは再び1971年シーズン方式が採用され、1985年まで同様の方式が続いた。1981年までは暦年の前半にメトロポリターノ、後半にナシオナルが行われていたが、1982年からは暦年の前半にナシオナル、後半にメトロポリターノが行われた[15]。
ヨーロッパシーズン制 (1985-1990)
アルゼンチン代表のカルロス・ビラルド監督のアドバイスにより、1985年に大会方式が変更された。伝統的に、南アメリカなど南半球の他国では暦年制(1月頃にシーズンが始まり12月頃に終わる)が採用されていたが、ヨーロッパの主要国のように秋春制(ヨーロッパ)/春秋制(アルゼンチン)[注 3](7月にシーズンが始まり6月に終わる)を採用した南米初のリーグとなった。加えて、それまでの短期リーグ制を廃止し、1967年以前のように1年を1シーズンとしてホーム&アウェーの総当たり戦を行う方式に変更された。1985年前半には最後の短期リーグであるナシオナル1985が行われ、メトロポリターノ1985は行われずに1985-86シーズンに移行した。1987-88シーズンまでは勝利勝ち点が2点だったが、1988-89シーズンには3点となった。また、同点のまま90分を終えた場合にはPK戦を行い、PK戦の勝者に勝ち点2点を、PK戦の敗者に勝ち点1点を与える方式が採用されたが、勝利勝ち点の変更もPK戦の実施も1988-89シーズンのみだった。
アペルトゥーラとクラウスーラ (1990-2012)
1990-91シーズンには短期リーグ制が復活し、前期リーグ(7月頃-12月頃)をアペルトゥーラ、後期リーグ(1月頃-6月頃)をクラウスーラと呼ぶアペルトゥーラとクラウスーラ制が導入された。1990-91シーズン終了後には、アペルトゥーラ優勝のニューウェルズ・オールドボーイズとクラウスーラ優勝のボカ・ジュニアーズが優勝プレーオフを戦って総合優勝クラブを決定した。この大会方式変更は大きな議論を呼び、特にクラウスーラで無敗優勝を遂げたボカがニューウェルズ(クラウスーラ8位)に敗れてからは物議を醸した。1991-92シーズンのアペルトゥーラではリーベルが、クラウスーラではニューウェルズが優勝したが、優勝プレーオフは行われずに両者優勝となった。優勝プレーオフ制度は1990-91シーズンの1シーズン限りで廃止され、1シーズンに2つの優勝クラブが誕生することとなった。1990-91シーズンから1994-95シーズンまでは勝利勝ち点が2点だったが、1995-96シーズンからは勝利勝ち点が3点となった。現在の方式では地方クラブにも昇格の道が開かれているが、当時はまだブエノスアイレス市-ブエノスアイレス州-サンタフェ州地域のクラブが多数を占めていた。例えば、1990-91シーズンはブエノスアイレス市のクラブが7クラブ、ブエノスアイレス州のクラブが7クラブ、サンタフェ州のクラブが3クラブであり、その他の地域のクラブは計3クラブに過ぎなかった。
イニシアルとフィナール (2012-2014)
2010-11シーズン終了後にはリーベルが初のプリメーラB・ナシオナル(2部)降格を喫したため、彼らに対する救済措置としてリーグ改革案が公開された[17]。プリメーラ・ディビシオンとプリメーラB・ナシオナルの計40クラブを単一リーグとし、8クラブずつ5グループに分けた上でリーグ戦を行い、それぞれのグループの上位4クラブが決勝トーナメントを争うというものだったが、メディアや各クラブサポーターの猛反対に遭って改革案は頓挫した。2012-13シーズンから前後期リーグの名称がトルネオ・イニシアル(開幕リーグ)とトルネオ・フィナール(閉幕リーグ)に変更された。最終節終了時に勝ち点で最上位のクラブが複数あった場合は、得失点差に関係なく一発勝負の優勝プレーオフで優勝クラブを決定する。大会形式はアペルトゥーラとクラウスーラ制とほぼ同じだが、フィナール閉幕後にイニシアルとフィナールの優勝クラブが争うフィナール・カンペオナート(年間優勝決定戦)が中立地で行われる[18][19]。フィナール・カンペオナートは2013-14シーズンも行われたが、プリメーラ・ディビシオンのタイトルとは別のカップ戦として扱われた。また、2015年以降、1シーズン制になったため、フィナール・カンペオナートは開催されていない。
1シーズン制 (2014-現在)
2014年下期に"Torneo de Transición"として20チームにより短期リーグが行われたのち、2015シーズンは1シーズン制として30チームにより優勝を争った。しかし、2016上期の短期リーグ(2グループ+優勝決定戦)を挟み、2016-17シーズンからは、1989-90シーズン以来のヨーロッパ型の1シーズン制で優勝を争うことになった。2017-18シーズンからはAFAと別組織による運営となり、名称はスーペルリーガ・アルヘンティーナに変更され、リーグ杯(コパ・デ・ラ・スーペルリーガ)が創設された。2020年4月28日、アルゼンチンサッカー協会は、新型コロナウイルスの流行により、2019-20シーズンにおける残り全ての大会の中止を発表した。20202年コパ・デ・ラ・スーペルリーガは途中で打ち切りとなり、後に大会自体が廃止されたため、1回限りの開催となった。プリメーラ・ディビシオンは2022年までチームの降格を行わない[20]。2021シーズンからトップリーグは再びAFAの管轄となり名称がリーガ・プロフェッショナルに変更された。
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南米カップ戦
要約
視点
南米サッカー連盟 (CONMEBOL) が主催する主要なカップ戦はコパ・リベルタドーレス(1960年-)とコパ・スダメリカーナ(2002年-)のふたつであり、長らくコパ・リベルタドーレスのアルゼンチンからの出場枠は2枠だった。CONMEBOLは1980年代後半から1990年代にかけて主催大会を乱発し、スーペルコパ・スダメリカーナ(1988年-1997年)、コパCONMEBOL(1992年-1999年)、コパ・メルコスールとコパ・メルコノルテ(1998年-2001年)などが開催されたが、結局、コパ・リベルタドーレスの出場枠の拡大(2000年~)及び、コパ・メルコスールとコパ・メルコノルテの統合による、コパ・スダメリカーナの創設(2002年~)に帰着した。
- [A]はアペルトゥーラ、[C]はクラウスーラ、[I]はイニシアル、[F]はフィナール、[T]はTransición(暦年制への移行に伴う短期リーグ)
コパ・リベルタドーレス
コパ・リベルタドーレスは南米でもっとも権威あるカップ戦であり、2019年までにアルゼンチンのクラブは国別最多の25回優勝している。CAインデペンディエンテが7回(クラブ別最多)、ボカ・ジュニアーズが6回、エストゥディアンテス・デ・ラ・プラタが4回、CAリーベル・プレートが4回、ラシン・クルブ、AAアルヘンティノス・ジュニアーズ、CAベレス・サルスフィエルド、サン・ロレンソがそれぞれ1回優勝している。2016年までは暦年の前半(1月-6月)、2017年以降は通年開催される南米カップ戦である。
アルゼンチンからの出場枠が4枠に拡大した2000年大会以降、出場クラブは、主に前シーズンの国内リーグ戦の結果によって決定されている。まず、アペルトゥーラとクラウスーラ(2012-13,2013-14シーズンはイニシアルとフィナール)の優勝クラブが出場権を得て、さらにシーズンの通算勝ち点上位クラブ(優勝2クラブは除く)が出場権を得ることが多かった。2008年大会までは、大会前々年から前年にかけてのアペルトゥーラとクラウスーラの優勝クラブ、2009年大会から2015年大会にかけては、主に大会前年のクラウスーラとアペルトゥーラの優勝クラブが出場権を得ていた。
2014年大会以降は、2011年から復活したコパ・アルヘンティーナの優勝チームも出場権を得ている。2015年以降は1シーズン制となったため、2016年大会以降、大会前年に完結するシーズンの成績により出場権が決まることになった。
コパ・スダメリカーナ
コパ・スダメリカーナでも最多優勝国はアルゼンチンであり、2002年の大会初開催以来、2019年までに8回優勝している。ボカ・ジュニアーズとCAインデペンディエンテが2回、CAサン・ロレンソ・デ・アルマグロ、アルセナルFC、ラヌース、CAリーベル・プレートがそれぞれ1回優勝しており、国別2位のブラジル(4回)に大きな差を付けている。2016年までは暦年の後半(7月-12月)、2017年以降は通年に開催される南米カップ戦である。
2003年以降、アルゼンチンの出場枠は6枠であり、2009年まではボカ・ジュニアーズとリーベル・プレートの2クラブは南米サッカー連盟 (CONMEBOL) からの招待を受け、国内リーグ戦の順位にかかわらず毎年出場権を得ていた。両クラブに加えて、大会直前までのアペルトゥーラとクラウスーラの合計勝ち点上位4クラブがコパ・スダメリカーナの出場権を得ていた。2010年から2クラブの招待枠が廃止され、合計勝ち点上位6クラブが出場権を得る方式に変更された。コパ・リベルタドーレスの出場枠の一部も合計勝ち点上位に割り当てられたため、2011年までは同じシーズンの成績により、コパ・リベルタドーレスとコパ・スダメリカーナ両方の出場権を得ることもできた。例えば2005-06シーズンの成績により、クルブ・デ・ヒムナシア・イ・エスグリマ・ラ・プラタ、CAバンフィエルド、CAベレス・サルスフィエルドが、2006年のコパ・スダメリカーナと2007年のコパ・リベルタドーレスの出場権を得た。
2012年以降、リーグ戦の成績に基づく出場権は同じ年度のコパ・リベルタドーレスの出場権を得たクラブを除いた、成績上位のクラブに与えられることとなったが、前回王者や国内カップ戦の勝者など一部の出場枠からは、同一年度のコパ・リベルタドーレスとコパ・スダメリカーナの両大会に出場することができた。しかし、2017年以降、コパ・リベルタドーレスとともに通年開催となったため、同一年度の両大会の出場権を得ることはできなくなった(コパ・リベルタドーレスの予選、グループステージで敗退した一部チームは、コパ・スダメリカーナに途中参加することができる。)
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昇降格制
要約
視点
1981年シーズンには人気クラブのCAサン・ロレンソ・デ・アルマグロが降格し、1983年シーズンにはやはり人気クラブのCAリーベル・プレートが降格しそうになったため、1983年に昇降格に対する平均獲得勝ち点率(総勝点を総試合数で割った値)制度が導入された[23]。1983年シーズンのリーベルは19クラブ中18位に終わっており、もし旧制度が続いていたら降格が決定していた。この方式で降格した初めてのクラブはラシン・クルブとCAヌエバ・チカゴだった[15]。なお、1984年シーズンにボカ・ジュニアーズも下位に低迷しているため、平均獲得勝ち点率制度が導入された背景にはビッグクラブの降格可能性を減らす目的があるという疑いをもった見方もある。その後、リーベル・プレートは、2010-11シーズンに年間通算6位の成績を収めながら、直前の2シーズンが15位と低迷していたこともあり、昇降格プレーオフに出場し敗退したため、チーム初の降格を喫することとなった。
1998-99シーズンまでは、過去3シーズンの平均獲得勝ち点率下位2クラブが自動的に降格し、昇降格プレーオフなどは行われなかった。1999-2000シーズンから2011-12シーズンまでは、過去3シーズンの平均獲得勝ち点率下位2クラブが自動的に降格し、それに続く下位2クラブも昇降格プレーオフへの出場を余儀なくされた。プリメーラB・ナシオナルの上位クラブと2レグ制の昇降格プレーオフを戦い、それに勝利すれば残留が決定した。プリメーラB・ナシオナルからは上位2クラブが自動的に昇格し、それに続く2クラブが昇降格プレーオフに出場した。昇格してから3シーズンに満たないクラブでも、降格判定には昇格後の平均獲得勝ち点率が適用されるため、昇格後1シーズンか2シーズンで降格もあり得た。
2012-13シーズンから昇降格プレーオフが行われず、過去3シーズンの平均獲得勝ち点率下位3クラブが自動的に降格する。
2025シーズン所属クラブ
→詳細は「アルゼンチンのサッカーリーグ構成」を参照
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歴代大会の結果
- 表中の略号
- 1967年 - 1985年 : N=ナショナルリーグ (アルゼンチン国内の各地域リーグの勝者が参加した全国選手権), M=メトロポリタンリーグ (首都ブエノスアイレスのリーグ)
- 1990年 - 2012年 : A=アペルトゥーラ (前期リーグ), C=クラウスーラ (後期リーグ) ※1990-91シーズンのみ年間優勝クラブ決定戦を実施
- 2012年 - 2014年 : I=イニシアル (前期リーグ), F=フィナール (後期リーグ)
- ※太字が年間優勝クラブ(1990-91,2012-13)または、フィナール・カンペオナート勝者(2013-14)
- 2014年 - 現在 : 1ステージ制
- また括弧くくりの数字は獲得勝ち点を指す。
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歴代入れ替え戦の結果
- 1999年シーズンから2012年シーズンまでの13年間導入されていた。過去3年間のリーグ戦の成績の17位、18位のクラブと2部リーグの3位、4位のクラブが出場。試合形式は、ホーム・アンド・アウェーでの2回戦制(第1戦は2部所属、第2戦は1部所属のホームでの開催)で行われ、勝利数の多い方が勝者となり、次年度1部リーグ所属。2試合とも原則として延長戦は行わず、90分終了時点で同点の場合は引き分け。2試合における勝利数が同数となった場合は2試合における得失点差(=合計得点数)で勝敗を決定。合計得点数が同数となった場合は入れ替え無し。
のクラブが次年度1部リーグ所属 |
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歴代得点王
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歴代昇降格記録
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主な日本人選手
- 高原直泰 - ボカ・ジュニアーズ (2001年 - 2002年)
- 片桐淳至 - CAロサリオ・セントラル (2003年 - 2004年) 、キルメスAC (2004年 - 2005年)
- 池元友樹 - CAリーベル・プレート (2003年 - 2005年)
- 加藤友介 - CAウラカン (2006年 - 2008年) 、デフェンソーレス・ベルグラーノ (2008年 - 2009年)
関連項目
脚注
外部リンク
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