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ウォルター・ウルフ・レーシング
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ウォルター・ウルフ・レーシング(Walter Wolf Racing)は、カナダの石油王ウォルター・ウルフが1976年にフランク・ウィリアムズ・レーシングカーズへの資金面のスポンサーとしてF1に参入し、翌1977年から同チームを買収して、コンストラクターとしてF1に参戦したチームおよびコンストラクターである。チーム監督はピーター・ウォー。
歴史
1976年に、ウォルター・ウルフはフランク・ウィリアムズのチームに出資していたが、チームの権限がほとんどウルフのものとなり、1977年にウィリアムズはチームを離脱して新たにウィリアムズ・グランプリ・エンジニアリングを設立した。結果的にウィリアムズの持っていた設備等を継承する形で、ウォルター・ウルフ・レーシングが誕生した。
ウルフは豊富な資金力を活用し、ドライバーにジョディー・シェクター、デザイナーにハーベイ・ポスルスウェイトを迎えた。ポスルスウェイトによって設計されたウルフ・チーム初のF1マシンであるWR1は、コスワースDFVエンジンを搭載してデビュー戦のアルゼンチンGPで優勝という偉業を成し遂げた[1]。同年のモナコ、カナダでもシェクターは優勝し、ドライバーズランキングで2位の成績を残した。また1台体制にもかかわらず、チームはコンストラクターズランキングで4位となり、高い競争力を持つことを示した。
翌1978年もシェクターを擁してたびたび表彰台に上ったが、勝利を記録することはなかった。1979年にはシェクターがフェラーリに移籍してしまい、またポスルスウェイトのマシンも競争力が低下してしまったため、ウルフは参戦を続ける意欲を失ってしまった。チームは同じく1台体制だったフィッティパルディ(コンストラクター名はコパスカー)に吸収合併され、コパスカーが2台体制となる形で消滅した。
日本でのスポンサー活動
1979年の全日本F2選手権に参戦する桑島正美を支援し、同シリーズ最終戦でスポット参戦したケケ・ロズベルグもウォルターウルフカラーのマーチ・792で参戦。ロズベルグは3位表彰台を獲得した。 1984年、全日本F2選手権では萩原光のスポンサーとなり、萩原がウォルターウルフカラーのマーチ・BMWでフル参戦した。
1985年から1987年まで、国内オートバイレースの全日本ロードレース選手権最高峰クラス・500ccへ参戦する水谷勝(スズキ)のメインスポンサーとなった。水谷はヤマハの平忠彦とチャンピオン争いを展開。スズキからはウォルターウルフカラーのスクーターやオートバイが市販された。
濃紺地に金色のポイントをあしらったウルフカラーは自動車模型ファンなどの間で人気が高い。東京都港区南青山のプラザ246ビルには「ウォルター・ウルフ公認ショップ」が存在した。なお同地には閉店後数店舗を経て、1980年代にはハーゲンダッツの1号店となった。
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変遷表
*枝がついているチームに車体を供給(括弧内に供給した車体の型番を記載)
*斜体になっているドライバーはスポット参戦など
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ウルフ・カウンタック
- 詳細は「ウルフ・イオタ」を参照
- 詳細は「ウルフ・カウンタック」を参照
外部リンク
脚注
関連項目
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