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エジウソン・ダ・シルバ・フェレイラ
ブラジルのサッカー選手 ウィキペディアから
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エジウソン (Edílson) こと、エジウソン・ダ・シルバ・フェレイラ(Edílson da Silva Ferreira、1970年9月17日 - )は、ブラジル・バイーア州サルヴァドール出身の元サッカー選手。ポジションはフォワード。日本での愛称は褐色の弾丸。
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経歴
167センチと小柄ながら抜群のスピードと類い稀なるゴールへの嗅覚で得点を挙げるストライカー[1]。
1993年に移籍したパルメイラスにて1993年と1994年のブラジル全国選手権連覇に貢献[1]。1994-95シーズンにはポルトガルのベンフィカで1シーズンプレー。1996年2月、パルメイラスから日本の柏レイソルに移籍、1996年3月20日の名古屋グランパスエイト戦でJリーグ初ゴール[2]1997年9月まで在籍[3]。3月23日、ヴェルディ川崎戦のゴールはJリーグ30周年ベストゴールのテクニカル部門にもノミネートされた[4]。1996年のJリーグでは得点ランキング2位の21ゴールをあげ、翌年もシーズン途中に退団した影響で25試合の出場ながら[1]、23ゴールを記録[3]。1996年5月4日の第12節ガンバ戦(万博記念競技場)で1試合5得点のJリーグ・リーグ戦タイ記録打ち立てている(7-1で勝利)、他に野口幸司、中山雅史、呂比須ワグナーが1回ずつ達成している。)同年5月18日のジュビロ磐田戦でもハットトリックを決めている[5]。1997年、2ndステージの第2節の清水エスパルス戦では、延長戦の試合中に倒れ、試合を止めるように主審にアピール。ゲームが止まるかと思われた中、目の前にボールが転がってくると、急に立ち上がりエスパルスゴールへ向かって突進し、Vゴールを決めた。このVゴールでの勝利により、清水エスパルスサポータが試合後にレイソルのチームバスを囲む騒動となった、このトラブルがレイソル退団の引き金となり、[要出典]コリンチャンスへ移籍した。
1997年から2000年まで所属したコリンチャンスでは、1998年と1999年ブラジル全国選手権連覇、2000年の世界クラブ選手権優勝の原動力として活躍、自身も1998年のボーラ・ジ・オーロと2000年の世界クラブ選手権MVPに輝いている[1]。フラメンゴ、クルゼイロを経て、2002年W杯南米予選では30代ながらも衰えを感じさせないプレーをしブラジルをワールドカップ出場と優勝に貢献した。
ワールドカップ終了後に柏レイソルに復帰したが[6]、かつての程の活躍は見せられず、16試合7ゴールに終わった[2]。2003年シーズンは、開幕後もチームに合流しなかった為、解雇された[1]。2006年前半にはヴァスコ・ダ・ガマにてロマーリオとの2トップを組んだ。
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代表経歴
ブラジル代表に初選出されたのは1993年。一時期代表から外れていたものの、2001年に就任したフェリペ監督のもとで再招集され、2002年W杯南米予選終盤で活躍。本大会でも4試合に出場して優勝に貢献した[1]。
所属クラブ
- 1990年
インドゥストリアルEC
- 1991年
タナビEC
- 1992年
グアラニFC
- 1993年 - 1994年
SEパルメイラス
- 1994年 - 1995年
SLベンフィカ
- 1995年
SEパルメイラス
- 1996年 - 1997年
柏レイソル
- 1997年 - 1999年
SCコリンチャンス・パウリスタ
- 2000年
CRフラメンゴ
- 2001年 - 2002年
クルゼイロEC
- 2002年7月 - 2003年2月
柏レイソル
- 2003年
CRフラメンゴ
- 2004年2月 - 12月
ECヴィトーリア
- 2005年
アル・アインFC
- 2005年7月 - 12月
ADサンカエターノ
- 2006年
CRヴァスコ・ダ・ガマ
- 2007年
ECヴィトーリア
- 2010年
ECバイーア
- 2016年
CAタボン・ダ・セーハ
個人成績
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代表歴
出場大会
- ブラジル代表
- 2002年 ‐ ワールドカップ日韓大会 4試合0得点 (優勝)
試合数
- 国際Aマッチ 22試合 6得点(1993年-2002年)[7]
個人タイトル
出典
関連項目
外部リンク
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