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エル・ヒガンテ

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エル・ヒガンテ
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エル・ヒガンテEl Gigante)ことホルヘ・ゴンサレスJorge González1966年1月31日 - 2010年9月22日)は、アルゼンチン出身のプロレスラー

概要 エル・ヒガンテ, プロフィール ...

WWFにおけるジャイアント・ゴンザレスGiant Gonzales)のリングネームでも知られる。日本では、大巨人アンドレ・ザ・ジャイアントを超える長身から「超巨人」、またプリモ・カルネラのニックネーム「動くアルプス」にあやかり、南アメリカ出身であることから「動くアンデス」などの異名で呼ばれた。

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来歴

要約
視点

両親ともに普通の体格であったが、出生時に体重が6000グラムあり、身長も10歳で175cm、14歳で193cm、16歳で2メートルを超えた[3]

母国アルゼンチンでは歴代最高の身長を持つバスケットボール選手として活躍[4]ナショナル選抜チームに所属し、1986年FIBA世界選手権にも出場した[4]1988年NBAドラフトの第3巡でアトランタ・ホークスに指名されるが、NBAのレベルに達することができずに廃業[4](膝の負傷による引退とも本人は語っている[3])。ホークスと同じくテッド・ターナーが所有していたWCWのジム・ハード副社長およびジム・ロスのスカウトにより、プロレスラーに転向することとなった[5]

当時WCWのブッカーでもあったヒロ・マツダのもとでトレーニングを積み、1990年5月のPPV "Capital Combat" にてファンの前で紹介された後、同年7月7日にメリーランド州ボルチモアで開催された『グレート・アメリカン・バッシュ'90』にてデビューを果たす[2]スペイン語で「ザ・ジャイアント」を意味するエル・ヒガンテリングネームに、当日はポール・オーンドーフ&ジャンクヤード・ドッグとのトリオでフォー・ホースメンアーン・アンダーソンバリー・ウインダムシッド・ビシャス)と対戦した[6]。WCWではデビュー以来ベビーフェイスのポジションで活動、アンドレ・ザ・ジャイアント以上の巨人レスラーとして注目を集め、1991年は2月から6月にかけてリック・フレアーNWA世界ヘビー級王座に再三挑戦している[7]

1991年3月21日には新日本プロレス東京ドーム大会『'91スターケードin闘強導夢』に初来日、ビッグ・キャット・ヒューズを一蹴した[2]。以降も新日本プロレスに特別参加の扱いで度々参戦して、同年8月の再来日では獣神サンダー・ライガーと凸凹タッグを結成[8]1992年1月4日の東京ドーム大会ではビッグバン・ベイダーと対戦している[9]

1993年ジャイアント・ゴンザレスと改名してWWFに移籍。ハービー・ウィップルマンマネージャーに付けてヒールに転向し、1月24日の『ロイヤルランブル'93』のランブル戦に筋肉柄の全身タイツという異様なコスチュームで乱入、ジ・アンダーテイカーを急襲した。以後、アンダーテイカーとの抗争アングルが展開され、4月4日の『レッスルマニアIX』ではクロロホルムを使ってアンダーテイカーを昏睡状態にさせた[1][10]。しかし、8月30日の『サマースラム'93』での決着戦でアンダーテイカーに敗れ、試合後にウィップルマンと決別してベビーフェイスに転向。その後はアダム・ボムとの抗争が予定されていたが、10月にWWFを離脱した[1]

WWF退団後はリングネームをエル・ヒガンテに戻し、1994年5月1日、新日本プロレスの福岡ドーム大会に来日して安田忠夫に勝利。以降は日本を主戦場とし、1995年2月8日には仙台グレート・ムタと対戦した。同年12月はWARに参戦、北尾光司とのタッグや天龍源一郎との対決も実現した[2]

1996年坐骨神経痛のため引退してアルゼンチンに帰国[5]。晩年は糖尿病との闘病を続け、車椅子での生活を送っていた[11]2010年9月22日、サン・マルティンの病院にて死去。44歳没

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得意技

脚注

外部リンク

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