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アトランタ・ホークス

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アトランタ・ホークス
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アトランタ・ホークスAtlanta Hawks)は、アメリカ合衆国ジョージア州アトランタ市に本拠を置く全米プロバスケットボール協会 (NBA) のチーム。イースタン・カンファレンスサウスイースト・ディビジョンに所属。チーム名は元はイリノイ州にあり、インディアンの「ブラックホーク酋長」から名付けられた。ミルウォーキーに移転後、単純にホークスとなり、アトランタは4箇所目のフランチャイズ都市である。なお、ブラックホークスの名はNHLシカゴ・ブラックホークスで残っている。

概要 アトランタ・ホークス Atlanta Hawks, チームロゴ ...
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歴史

要約
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初期

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フィリップス・アリーナ
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ボブ・ペティット

現在も存続するNBAのチームのうち、アトランタ・ホークスは最も古い歴史をもつチームの1つである。ホークスは1946年にNBL (National Basketball League) に所属するトライシティーズ・ブラックホークスとして出発し、当時トライ・シティーズと呼ばれていた(現在はクアッド・シティーズ英語版と呼ばれている)、アイオワ州東部のミシシッピ川河畔の町、ダベンポートを中心とする都市圏を本拠地としていた[8]。ブラックホークスが当時ホームとしていた競技場、ウォートン・フィールド・ハウスは対岸のイリノイ州モリーン英語版に現在も残っており、地元の高校がバスケットボールやバレーボール、レスリングの試合などに使用している[9]

1949年にNBLはBAA (Basketball Association of America) と合併しNBAが誕生、ホークスは監督にレッド・アワーバックを迎えた。

チームは1951年ミルウォーキーに、1955年にはセントルイスに移転し、それぞれミルウォーキー・ホークスセントルイス・ホークスという名称だった。ミルウォーキー時代最後の1954年にホークスはボブ・ペティットを獲得した。この頃監督は後にバスケットボール殿堂入りするレッド・ホルツマンだったもののチーム成績は伸び悩んだ。

1956年に元ホークス選手のアレックス・ハナムが監督に就くと状況は好転し、ボブ・ペティット、クリフ・ヘイガンを中心とした強豪へと成長した。1958年のNBAファイナル英語版で優勝を果たし、これが現在もチーム史上唯一の優勝経験となっている。続く1960年代前半、ペティットが現役でいる間ホークスはリーグの強豪の1つだったが、同時代を支配したボストン・セルティックスに優勝を譲る時期が続いた。

アトランタ・ホークス

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ピストル・ピート ピート・マラビッチ

1968年、チームはジョージア州アトランタに移転、チーム名を現在に続くアトランタ・ホークスと改称した。この頃よりチームは勝率5割前後が長く続いた。プレーオフには進出するものの、1回戦ないし2回戦敗退が長く続いた。1970年代前半はのちに殿堂入りするピート・マラビッチがチームを率いた。

70年代後半は低迷しプレーオフからも離れ、低迷期は1980年代前半まで続いた。80年代中期にはマイク・フラテロが監督を務め、徐々にディビジョンの強豪の1つとして成長していった。1982年のNBAドラフトで指名したドミニク・ウィルキンズはリーグを代表する選手の1人として人気を集め、ドック・リバースケビン・ウィリスステイシー・オーグモンらが脇を固めた。

1990年代に入る頃ホークスは再び低迷期に入り、1993年に就任した名将レニー・ウィルケンズがチームの再建に取り組んだ。1993-94シーズン途中にウィルキンズ、翌シーズン途中にはウィリスも放出したが、ムーキー・ブレイロックスティーブ・スミスディケンベ・ムトンボアラン・ヘンダーソン英語版などの好選手を擁し、ディビジョン上位に食い込む活躍を見せた。ウィルケンズは在任中に監督として勝利数を塗り替える快挙を成し遂げたもののプレーオフでは2回戦を越えられない年が続き、1999年にブレイロック、スティーブ・スミスは放出され、2000年にウィルケンズは辞任。1999-00シーズンからは8シーズン連続でプレーオフ進出を逃した。

2001年のNBAドラフト3位指名権などと交換でシャリーフ・アブドゥル=ラヒームを獲得し、1999年のNBAドラフトにドラフトで指名したジェイソン・テリーと2人を軸に再建を図ったが低迷から脱せず、2004年にテリーとアブドゥル=ラヒームは放出された。また、2003年9月にチームは、同じアリーナを使用するプロアイスホッケーNHLのチームのアトランタ・スラッシャーズと共に、タイムワーナー社から、投資者集団に売り渡された。

2004年のNBAドラフトジョシュ・チルドレスジョシュ・スミスサリム・スタウダマイアー英語版を指名したが、2004-05シーズンは連勝が1度もなく不振を極め、球団史上最低の13勝に終った。

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アル・ホーフォード

2005年のNBAドラフトでは全体2位指名権を得てマービン・ウィリアムズを指名、トレードでジョー・ジョンソンを獲得。2007年のNBAドラフトでは全体3位指名権を得てアル・ホーフォードを指名し有望な若手選手を揃えたチームは、2007-08シーズン2008年2月にはマイク・ビビーをトレードで獲得し、更なる飛躍を目指し、9年振りとなるプレーオフ進出決定した。

2013年のNBAファイナル直前に、グレッグ・ポポヴィッチのもと、サンアントニオ・スパーズの第1アシスタントコーチとしてポポビッチを支え、4度のNBA優勝を経験した[10]マイク・ブーデンホルツァーがホークスのヘッドコーチに選任された[11]。新ヘッドコーチでのシーズンは、前シーズンまで6年連続プレーオフ進出が続いている強豪で、主力のアル・ホーフォードが故障で十分に出場できない中、残りのロースターで苦戦しながら、38勝44敗と負け越しはしたものの、プレーオフに8位で滑り込んだ。1stラウンド1戦目で1位のインディアナ・ペイサーズを下し、新ヘッドコーチでプレーオフ初勝利を勝ち取った。その後2勝し最終戦まで粘ったが、1回戦で敗退した。

2014-15シーズンは、ブーデンホルツァーの標榜するチームバスケットが浸透し、派手さはないがターンオーバーが少なくパスの良く回るスパーズ仕込みのゲームを展開。またデニス・シュルーダーら若手選手の成長もあり、序盤から勝率7割以上で、イースタンカンファレンスの首位を独走した。ビューデンホルツァーは、ウェストで同じく好スタートを維持したゴールデンステート・ウォリアーズ新ヘッドコーチのスティーブ・カーと共にオールスターゲームのヘッドコーチに選ばれた。選手も、アル・ホーフォードジェフ・ティーグポール・ミルサップの3選手が選ばれた[12]カイル・コーバードウェイン・ウェイドの欠場に伴い出場した。後半戦も勝ち星を伸ばし、サウスイーストディビジョン優勝とイースタン・カンファレンス第1シードでのプレーオフ進出を決め、4月7日のフェニックス・サンズ戦でシーズン58勝目を挙げ、フランチャイズ記録を更新[13]。更に10日のシャーロット・ホーネッツ戦の勝利で、チーム史上初のシーズン60勝を達成。プレーオフに入ってからも好調が続き、ブルックリン・ネッツワシントン・ウィザーズをそれぞれ4勝2敗で下し、アトランタに移転して以降初めてカンファレンスファイナルに進出したものの、カンファレンスファイナルでは、レブロン・ジェームズが復帰したクリーブランド・キャバリアーズに4戦全敗をスイープ負けを喫し、NBAファイナル進出はならなかった。

2015-16シーズンは、攻守のキーマンだったデマール・キャロルを失い、先行きが不安視されたが、48勝34敗でプレーオフに進出。1stラウンドはボストン・セルティックスを退けたものの、セミファイナルはまたしてもクリーブランド・キャバリアーズに4戦全敗を喫し、シーズン終了後には契約交渉が決裂していたジェフ・ティーグアル・ホーフォードを放出。新たに地元アトランタ出身のドワイト・ハワードを獲得し、チームを立て直すことになった。2016-17シーズンは43勝39敗の成績でイースタンカンファレンス5位でプレーオフに進出するも、1stラウンドでワシントン・ウィザーズに2勝4敗で敗れた。オフにはミルサップが退団するなど、再建に舵を切った。

2017-18シーズンは苦しいシーズンとなり、24勝58敗でカンファレンス最下位に沈み、11年振りにプレーオフ進出を逃した。また、このシーズンはダンクコンテスト優勝者のヴィンス・カーターを獲得する。

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トレイ・ヤング

2018年のNBAドラフトで3位指名権を獲得し、ルカ・ドンチッチを指名したが、直後ダラス・マーベリックスが5位で指名したトレイ・ヤングを含んだトレードでドンチッチを渡し、ヤングを獲得した。

2020-21シーズンはシーズン途中にロイド・ピアース英語版が解任されながらも、ネイト・マクミランの下、カンファレンス5位で、プレーオフではカンファレンスファイナルに進出した。ドラフトで獲得したトレイ・ヤングジョン・コリンズケビン・ハーターキャム・レディッシュデアンドレ・ハンターなどの若手の活躍が目立った。

2021-22シーズン開幕前にトレードでオールスター経験のあるデジャンテ・マレーを獲得[14]。新たなヤングとマレーのバックコートにより、このシーズンはプレーオフに進出したが、第1回戦でボストン・セルティックスに敗れた。

2024-25シーズン開幕前のトレードでニューオーリンズ・ペリカンズにマレーを放出し、ダイソン・ダニエルズラリー・ナンス・ジュニアE・J・リデルコディ・ゼラーサイン・アンド・トレード)、2つの将来のドラフト1巡目指名権を獲得し、ヤングとマレーのバックコートはわずか2年で解体となった[15]2024年のNBAドラフトでは、3%の確率で全体1位指名権を引き当て、フランス出身のザカリー・リザシェイを指名した[16]

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ザカリー・リザシェイ
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シーズンごとの成績

Note: 勝 = 勝利数, 敗 = 敗戦数, % = 勝率

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主な選手

要約
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現役選手

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保有するドラフト交渉権

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コーチ、その他

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歴代ヘッドコーチ

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栄誉

要約
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永久欠番

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注釈

  • 1 ホークスは2010年から2018年まで地元アトランタの第59代目市長であったカシム・リードに敬意を表して、59代にちなんだ背番号「59」を永久欠番にした[18][19]

バスケットボール殿堂入り

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注釈:

  • 1 1958年から1960年にかけてコーチも務めた。
  • 2 1957年にはコーチも務めた。
  • 3 ウィルケンズは選手、コーチ、そして1992年オリンピックチームのメンバーとして、計3回の殿堂入りを果たしている。
  • 4 ベラミーは選手及び1960年オリンピックチームのメンバーとして、計2回の殿堂入りを果たしている。
  • 5 1964年から1972年までコーチも務めた。
  • 6 1953-1954シーズンに同チームでプレーしている。
  • 7 1954年から1956年、1956年から1957年にも同チームでプレーしている。

FIBA殿堂入り

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チーム記録

アトランタ・ホークスのチーム記録

関連項目

脚註

外部リンク

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