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カルロス・モヤ
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カルロス・モヤ・リョンパルト(Carlos Moyá Llompart、1976年8月27日 - )は、スペイン・パルマ・デ・マヨルカ出身のプロテニス選手。 1998年全仏オープン男子シングルス優勝者である。ATPツアーでシングルス20勝を挙げた。ATPランキング自己最高位はシングルス1位、ダブルス108位。身長190cm、体重86kg。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。非常に強力なストロークを武器にした。
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選手経歴
1995年にプロ転向。1997年全豪オープン1回戦で大会前年優勝者のボリス・ベッカーを破る大波乱を演じ、勢いに乗って決勝まで勝ち進んだが、ピート・サンプラスに完敗して準優勝になる。当時20歳だったモヤはロック歌手を思わせる長髪とダイナミックなプレーで一躍大会の人気者になり、"ヨーロッパのアガシ"とまで呼ばれたという。
1998年全仏オープン決勝で、アレックス・コレチャとのスペイン対決を制して4大大会初優勝を達成。この年は全米オープンでもベスト4進出を果たしたが、準決勝でマーク・フィリプーシスに敗れる。
1999年3月15日付の世界ランキングで、スペイン選手として初の男子シングルス世界ランキング1位となる。大会前年優勝者として臨んだ1999年全仏オープンでは、4回戦で第13シードのアンドレ・アガシに敗れた。その後モヤの4大大会での活躍は少ないが、2004年度にはATPツアーのシングルスで3勝を挙げ、世界トップ10選手の座を維持した。またこの年はオリンピックのスペイン選手団の一員として2004年アテネ五輪に単複両部門で出場。後輩選手のラファエル・ナダルと組んで出場したダブルスは1回戦でアンドレ・サ/フラビオ・サレッタ組に敗れたが、第3シードで出場したシングルスでは同大会優勝者となるニコラス・マスーとの準々決勝まで進出した。デビスカップ決勝でも、アメリカ代表のマーディ・フィッシュとアンディ・ロディックを破りデビスカップスペイン代表の優勝に貢献した。
2010年に足の故障を理由に現役を引退した[1]。私生活では2010年に女優のカロリナ・セレスエラとの間に女児が誕生。2011年7月に結婚している。
2016年はミロシュ・ラオニッチのコーチを務め、ラオニッチの世界ランキング3位への躍進に貢献した。2017年からラファエル・ナダルのコーチを務めている。
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プレースタイル
強力なストローク力、リターン力をいかしたストロークプレイヤーで、ストローカーとしてはサーブも強力であった。
スペインを代表するプレイヤーの一人。1993年全仏オープンと1994年全仏オープンで2連覇したセルジ・ブルゲラの後を受けて、1990年後半に、 1998年全仏オープン優勝、1997年全豪オープン準優勝、1998年全米オープンベスト4等と活躍。
スペインにはクレーコートが最も多いため、回転量の多いトップスピンでひたすらボールをつなげ続ける、守備的スタイルが主流であったが、モヤは、ヘビー・トップスピンはそのままに、より激しくボールを叩くことで、攻撃性を増したテニスを実現。クレーコートだけでなく「ハードコートでも通用するスペインテニス」に進化させたモヤの功績は大きい。
ATPツアー決勝進出結果
シングルス: 44回 (20勝24敗)
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4大大会優勝
- 全仏オープン:1勝(1998年)
- (全豪オープン準優勝:1997年)
4大大会シングルス成績
- 略語の説明
W | F | SF | QF | #R | RR | Q# | LQ | A | Z# | PO | G | S | B | NMS | P | NH |
W=優勝, F=準優勝, SF=ベスト4, QF=ベスト8, #R=#回戦敗退, RR=ラウンドロビン敗退, Q#=予選#回戦敗退, LQ=予選敗退, A=大会不参加, Z#=デビスカップ/BJKカップ地域ゾーン, PO=デビスカップ/BJKカッププレーオフ, G=オリンピック金メダル, S=オリンピック銀メダル, B=オリンピック銅メダル, NMS=マスターズシリーズから降格, P=開催延期, NH=開催なし.
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脚注
外部リンク
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