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カール・フォガティ
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カール・ジョージ・"フォギー"・フォガティ (Carl George "Foggy" Fogarty、1965年7月1日 - ) は、イギリスのイングランド・ランカシャーブラックバーン出身の元オートバイレーサー。スーパーバイク世界選手権で4回 (1994年、1995年、1998年、1999年) のチャンピオン、通算59勝はジョナサン・レイに次ぐ史上2位の記録を持つ。
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経歴
要約
視点
スーパーバイク世界選手権

1991年、ニール・タックスワース率いるホンダチームからスーパーバイク世界選手権 (SBK) にフル参戦を開始し、シリーズランキング7位を記録した。チームは1992年に撤退することとなり、フォガティはフルシーズンを戦えない状況に陥ったが、ドニントンで初勝利を挙げ、シリーズ9位に入る活躍を見せた。
1993年、フォガティはドゥカティ・ワークスに移籍を果たす。この年はカワサキのスコット・ラッセルとタイトル争いを演じることとなった。ラッセルの年間5勝に対しフォガティは11勝を挙げたが、2位の数はラッセル12回に対してフォガティは2回と安定性に欠け、ラッセルがチャンピオンとなった。
1994年シーズン、手首を骨折し第2戦ホッケンハイムを欠場したが、その後はカワサキのラッセル、ホンダのアーロン・スライトとのタイトル争いを制し、フォガティは初のSBKワールドチャンピオンに輝いた。翌1995年も開幕から8レースで6勝を挙げる活躍を見せ、その後も逃げ切りに成功し24レース中5レースを残してシリーズ2連覇を決めた。
1996年は再びタックスワースのチームに移籍することとなった。今回チームはホンダのワークスサポートを受けていたがフォガティは苦戦することとなり、チームメイトのスライトがシリーズ2位に入ったのに対してフォガティは4位に終わった。1997年にはドゥカティに戻り、ホンダのジョン・コシンスキーに次ぐシリーズ2位を記録した。
1998年シーズン、フォガティは第5戦ニュルブルクリンク終了時ではランキング6位に沈んでいた。しかしそこから猛烈な巻き返しを見せ、最終戦菅生でトロイ・コーサー、スライトを逆転しチャンピオンに輝いた。翌1999年はライバルを寄せ付けない強さを見せ、2位のコーリン・エドワーズ(ホンダ)に128ポイントもの大差を付けて自身4度目のタイトルを手に入れた。
2000年シーズンの第2戦フィリップアイランドの第2レース、フォガティはプライベーター仕様のドゥカティを駆る Robert Ulm と絡んで転倒し、複数箇所を負傷した。特に肩に負ったダメージは大きく、再びレースを戦えるほどには回復できずにフォガティは現役を引退することとなった。フォガティの後継者にはトロイ・ベイリスが就き、その後ドゥカティに3度のライダーズタイトルをもたらしている。
2002年、ドゥカティはフォガティの栄誉を讃え、300台限定のスペシャルモデル「モンスター・S4フォガティ」を発売した。
その他のレース

キャリア初期にはフォーミュラTT世界選手権(TT-F1)で活躍した。同選手権は1988年にスーパーバイク世界選手権が始まるとそちらに人気を奪われてしまい、シリーズ最後の1990年にはFIM規定の年間6戦を下回ったため、世界選手権から「フォーミュラTTカップ」に格下げとなったが、フォガティはホンダのマシンを駆って1988年から1990年までの3年連続でシリーズチャンピオンを獲得している。
また当時同選手権に組み込まれていたマン島TTレースでも3度総合優勝を果たしている。1992年にはヤマハの750 ccマシンで当時のラップレコード:18分18秒9(平均速度198.9km/h)を樹立し、この記録は7年もの間破られることがなかった(1999年にジム・ムーディがRVF750で平均速度200.3km/hを記録)。
ロードレース世界選手権にはフル参戦することはなかったが、何度かのスポット参戦を経験している。1990年には負傷したピエールフランチェスコ・キリの代役として500 ccクラスにROCチームから出場し、スウェーデンGPで自身最高となる6位に入った。また地元イギリスGPにはワイルドカード枠で何度か出場しており、1992年にはハリス・ヤマハを駆り一時6位を走行していたが、オイルに乗ってクラッシュしてしまった。1993年はカジバのマシンでセカンドロウを獲得し、1周目にバロス、ドゥーハン、シュワンツがクラッシュすると序盤は2位を走行、その後3位を走行中にガス欠に見舞われてしまったが、何とか惰性でフィニッシュラインまでたどり着いて4位に入賞した。1994年のイギリスGPにもエントリーしていたが、決勝を走ることはなかった。当初は手の負傷を理由にしていたが、のちに競争力がなかったのが本当の理由だったと明かしている。
1992年にはテリー・ライマーと組んでカワサキチームから世界耐久選手権に参戦。ル・マン24時間耐久ロードレースではMichael Simulも加えた3人体制で総合優勝を飾る。鈴鹿8時間耐久ロードレースではリタイヤに終わったものの、シリーズチャンピオンを獲得した。鈴鹿8耐にはこの年以外にも何度か出場しており、1991年にはスティープ・ヒスロップと、1996年には青木拓磨とペアを組んでそれぞれ3位表彰台を獲得している(いずれもマシンはホンダ)。
1995年にはデイトナ200マイルレースにドゥカティを駆って出場。フォガティはレースをリードしていたが、1周目に転倒しながらもその後復帰して猛追してきたカワサキのスコット・ラッセルに優勝をさらわれてしまった。イエローフラッグが掲示されてセーフティカーが入り、一気に差を詰められてしまったのが敗因だとフォガティは語った[1]。
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主な戦績
要約
視点
スーパーバイク世界選手権
ロードレース世界選手権
鈴鹿8時間耐久ロードレース
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引退後の活動
2002年、フォガティはマレーシアのペトロナスと組んで、「フォギー・ペトロナス」チームを立ち上げた。元々ザウバー(後藤治)とペトロナスがMotoGP参戦を目指して開発していた3気筒990ccマシンを手直ししたペトロナス・FP1[3]を使い、翌2003年シーズンよりスーパーバイク世界選手権に参戦を開始した。ライダーはかつてのチームメイトのトロイ・コーサー、ジェームス・ハイドンが務めた。ドゥカティ以外のメーカーのワークスサポートが縮小されていた2004年シーズンには、コーサーとクリス・ウォーカーがそれぞれ1度ずつ3位表彰台を獲得し、年間コンストラクターズランキングでも3位に入る活躍を見せた。しかしいくつかのメーカーのワークス活動が再開された2005年以降は、全く競争力を見せることができなかった。
ペトロナスは2006年シーズン終了をもってプロジェクトを終了させることとなり、フォギー・チームの将来は不透明なものとなった。2007年、チームはカスタマー仕様のドゥカティを走らせようとしていたが、スポンサーを集めることができずに頓挫。翌2008年はMVアグスタのワークスチームとして復活する計画があったが[4]これも実現できず、チームの設備は売りに出されることになってしまった[5]。
脚注
外部リンク
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