トップQs
タイムライン
チャット
視点
ジャマイカ (軽巡洋艦)
ウィキペディアから
Remove ads
ジャマイカ (HMS Jamaica, 44) はイギリス海軍の軽巡洋艦。クラウン・コロニー級軽巡洋艦(フィジー級軽巡洋艦)。
艦名は当時イギリス領であったジャマイカ島(ジャマイカ植民地)に由来し、イギリス海軍においてこの名を持つ艦としては6代目[1][注釈 1]。1941年12月にはウォーシップ・ウィークのキャンペーンに参加し、ブリストルの市民に割り当てられたが、戦後にはジャマイカ島訪問によって同島と強い関係を持った[1]。
Remove ads
艦歴
要約
視点
「ジャマイカ」は1938年度計画に基づき、1939年4月28日にバロー=イン=ファーネス、ヴィッカース・アームストロングで起工。1940年11月16日に進水し、1942年6月29日竣工した。
整調後は本国艦隊へ所属し、1942年9月にPQ18船団の間接護衛部隊に参加した。11月にはトーチ作戦を支援。この際、ヴィシー・フランス海軍潜水艦「フレネル」の攻撃を受けたが無事だった[3]。
バレンツ海海戦
→「第二次世界大戦中の北極海における輸送船団」も参照
→詳細は「バレンツ海海戦」を参照
12月、軽巡洋艦「シェフィールド」とR部隊を形成してバレンツ海海戦に参加した。
ロバート・L・バーネット少将は「シェフィールド」で指揮を執り、JW51B船団(護衛部隊指揮官ロバート・シャーブルック大佐)の間接護衛を担当した。するとクメッツ提督が率いるドイツ艦隊が、虹作戦を発動して連合国輸送船団を攻撃してきた[4]。連合軍側は最小限の被害と引き換えに[注釈 2]、重巡「アドミラル・ヒッパー」と重巡「リュッツォウ」など撃退して勝利した[5]。
英軽巡2隻は「ヒッパー」に機関室浸水被害を発生させて撤退に追い込み、味方と誤認して近づいてきたドイツ駆逐艦2隻を至近距離から砲撃して「フリードリヒ・エッコルト」を撃沈した[4]。
「ジャマイカ」は1943年7月から9月にかけて、ポーツマスで改装を行った。この改装で、「ジャマイカ」にはエリコン 20mm機銃が電動式連装銃架で6基と単装で4基装備された[6]。以降、「ジャマイカ」はRA53B船団、JW54A船団、JW54B船団、RA54B船団の護衛を担当した。
北岬沖海戦
→詳細は「北岬沖海戦」を参照

同年12月には北岬沖海戦参加し、本国艦隊司令長官ブルース・フレーザー大将が指揮するフォース2に所属した。フォース2は、戦艦「デューク・オブ・ヨーク」、軽巡「ジャマイカ」、駆逐艦4隻で編成されていた。
オストフロント作戦により出撃してきたドイツ戦艦「シャルンホルスト」は、すでに巡洋艦部隊(ロバート・バーネット提督:軽巡「シェフィールド」、「ベルファスト」、重巡「ノーフォーク」)と交戦してレーダーに損傷を受けていた[7]。戦場に到着したフォース2は、「シャルンホルスト」を圧倒して撃沈した[7][注釈 3]。
船団護衛と戦艦「ティルピッツ」攻撃
1944年2から3月にはJW57船団・JW58船団・RA58船団の護衛に参加[9]。更に「ジャマイカ」はJW58船団から分離され、ドイツ戦艦「ティルピッツ」を攻撃する航空母艦「ヴィクトリアス」を護衛した(タングステン作戦)。7月には、再度「ティルピッツ」を空襲する空母「インディファティガブル」、「フォーミダブル」、「フューリアス」を支援した(マスコット作戦)。しかし、こちらの攻撃は不成功に終わった(戦艦ティルピッツに対する連合軍の攻撃一覧)。
その後の活動

1944年8月から9月にかけて、「ジャマイカ」はJW59船団とRA59船団の護衛に従事した[10]。同年10月から翌1945年4月にかけて近代化改装を受け、X(3番)砲塔は撤去されて対空兵装増強(2ポンド砲を四連装で5基と単装で4基、ボフォース40mm機銃を単装で4基、エリコン20mm機銃を連装で2基と単装で6基)、レーダーの新式化が行われた[11]。
改装後の1945年6月6日、「ジャマイカ」は御召艦として国王ジョージ6世と王妃エリザベスのチャンネル諸島訪問に用いられた[12]。
9月には東インド諸島艦隊第5巡洋艦戦隊に配属となり、インド洋方面へ展開。後に第4巡洋艦戦隊に移る。大戦終結後の1948年8月には北アメリカ・西インド諸島管区へ展開した[13]。
朝鮮戦争
「ジャマイカ」が日本に向かう途中であった1950年6月25日、朝鮮戦争が始まった。「ジャマイカ」とフリゲート「ブラックスワン」は、アメリカ海軍軽巡洋艦「ジュノー」と会合し、朝鮮半島東岸で進撃する北朝鮮軍を艦砲射撃した[14]。7月2日には注文津から戻る北朝鮮船団を発見して交戦。船団を護衛していた北朝鮮海軍の魚雷艇と砲艇が反撃してきたが、「ジャマイカ」ら国連軍部隊は損害なしに魚雷艇3隻と砲艇全てを撃沈した[15]。6日後、沿岸を砲撃中に75mm砲弾が「ジャマイカ」に命中し、死者6名・負傷者5名を出した[14]。
8月15日に群山を砲撃。9月15日には仁川上陸作戦に伴い、月尾島を砲撃するとともにアメリカ海兵隊第1海兵連隊を支援した。上陸2日後の夜明け、「ジャマイカ」と米重巡洋艦「ロチェスター」は北朝鮮空軍のYak-9 2機と交戦した。1機が「ジャマイカ」に機銃掃射を行い乗員1名が戦死したが、そのYak-9は対空砲火で撃墜された[16]。
その後

「ジャマイカ」は1953年5月から1954年まで、本国で予備役に置かれた。1954年に地中海艦隊での任務のため再就役し、第1巡洋艦戦隊に配属された。ジャマイカ訪問後の1955年6月からチャタム工廠で改装を受けた後、戦隊に再合流した[17]。

1955年末から1956年初頭まで、「ジャマイカ」は映画『戦艦シュペー号の最後(原題「The Battle of the River Plate」)』で重巡洋艦「エクセター」役として撮影に用いられた。第二次中東戦争に伴い、「ジャマイカ」は1956年11月にマスケティーア作戦に参加した[18]。ポートサイドでイギリス海兵隊の上陸を援護する砲撃部隊を率いたが、内閣が4.5インチ (114 mm)を超える砲による艦砲射撃支援を禁じていたため、主砲の発砲は許可されなかった[19]。
「ジャマイカ」はキール訪問後の1957年11月20日に退役し、保管船となる。1960年11月14日にブリティッシュ・アイアン・アンド・スチール・コーポレーション(BISCO)へスクラップとして売却された。同年12月20日にダルミュアのアーノット・ヤング社へ到着した「ジャマイカ」の艦体は、1963年8月15日にトルーンで解体完了した[1]。
「ジャマイカ」の船鐘はジャージーのトリニティ小教区教会に保存されている。
Remove ads
栄典
「ジャマイカ」は第二次世界大戦の戦功で3個の、朝鮮戦争の戦功で1個の戦闘名誉章(Battle honours)を受章した[1]。
- 「ARCTIC 1942」
- 「NORTH AFRICA 1942」
- 「NORTH CAPE 1943」
- 「KOREA 1950」
画像
- クヴァールフィヨルズルで1943年10~11月撮影。
- 6インチ主砲塔内部。1943年5月撮影。
- 「ジャマイカ」の水雷分隊員。1944年1月1日撮影。
- 戦後の「ジャマイカ」の艦橋。1957年撮影。
登場作品
- 『戦艦シュペー号の最後(原題「The Battle of the River Plate」)』
- 重巡洋艦「エクセター (HMS Exeter, 68) 」役を務めた。
脚注
参考文献
外部リンク
Wikiwand - on
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Remove ads