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ジャマイカ (軽巡洋艦)

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ジャマイカ (軽巡洋艦)
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ジャマイカ (HMS Jamaica, 44) はイギリス海軍軽巡洋艦クラウン・コロニー級軽巡洋艦(フィジー級軽巡洋艦)。

概要 HMS ジャマイカ, 基本情報 ...

艦名は当時イギリス領であったジャマイカ島ジャマイカ植民地)に由来し、イギリス海軍においてこの名を持つ艦としては6代目[1][注釈 1]。1941年12月にはウォーシップ・ウィークのキャンペーンに参加し、ブリストルの市民に割り当てられたが、戦後にはジャマイカ島訪問によって同島と強い関係を持った[1]

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艦歴

要約
視点

「ジャマイカ」は1938年度計画に基づき、1939年4月28日にバロー=イン=ファーネスヴィッカース・アームストロングで起工。1940年11月16日に進水し、1942年6月29日竣工した。

整調後は本国艦隊へ所属し、1942年9月にPQ18船団の間接護衛部隊に参加した。11月にはトーチ作戦を支援。この際、ヴィシーフランス海軍潜水艦「フレネル英語版」の攻撃を受けたが無事だった[3]

バレンツ海海戦

12月、軽巡洋艦「シェフィールド」とR部隊を形成してバレンツ海海戦に参加した。

ロバート・L・バーネット英語版少将は「シェフィールド」で指揮を執り、JW51B船団英語版(護衛部隊指揮官ロバート・シャーブルック英語版大佐)の間接護衛を担当した。するとクメッツ提督が率いるドイツ艦隊が、虹作戦英語版を発動して連合国輸送船団を攻撃してきた[4]。連合軍側は最小限の被害と引き換えに[注釈 2]重巡アドミラル・ヒッパー」と重巡リュッツォウ」など撃退して勝利した[5]

英軽巡2隻は「ヒッパー」に機関室浸水被害を発生させて撤退に追い込み、味方と誤認して近づいてきたドイツ駆逐艦2隻を至近距離から砲撃して「フリードリヒ・エッコルト」を撃沈した[4]

「ジャマイカ」は1943年7月から9月にかけて、ポーツマスで改装を行った。この改装で、「ジャマイカ」にはエリコン 20mm機銃が電動式連装銃架で6基と単装で4基装備された[6]。以降、「ジャマイカ」はRA53B船団JW54A船団英語版JW54B船団英語版RA54B船団の護衛を担当した。

北岬沖海戦

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北岬沖海戦後、スカパ・フロー魚雷発射管の操作を実演する「ジャマイカ」乗員。

同年12月には北岬沖海戦参加し、本国艦隊司令長官ブルース・フレーザー大将が指揮するフォース2に所属した。フォース2は、戦艦「デューク・オブ・ヨーク」、軽巡「ジャマイカ」、駆逐艦4隻で編成されていた。

オストフロント作戦により出撃してきたドイツ戦艦シャルンホルスト」は、すでに巡洋艦部隊(ロバート・バーネット英語版提督:軽巡「シェフィールド」、「ベルファスト」、重巡「ノーフォーク」)と交戦してレーダーに損傷を受けていた[7]。戦場に到着したフォース2は、「シャルンホルスト」を圧倒して撃沈した[7][注釈 3]

船団護衛と戦艦「ティルピッツ」攻撃

1944年2から3月にはJW57船団英語版JW58船団英語版RA58船団の護衛に参加[9]。更に「ジャマイカ」はJW58船団から分離され、ドイツ戦艦ティルピッツ」を攻撃する航空母艦「ヴィクトリアス」を護衛した(タングステン作戦)。7月には、再度「ティルピッツ」を空襲する空母「インディファティガブル」、「フォーミダブル」、「フューリアス」を支援した(マスコット作戦)。しかし、こちらの攻撃は不成功に終わった(戦艦ティルピッツに対する連合軍の攻撃一覧英語版)。

その後の活動

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後方から見た「ジャマイカ」。

1944年8月から9月にかけて、「ジャマイカ」はJW59船団RA59船団の護衛に従事した[10]。同年10月から翌1945年4月にかけて近代化改装を受け、X(3番)砲塔は撤去されて対空兵装増強(2ポンド砲を四連装で5基と単装で4基、ボフォース40mm機銃を単装で4基、エリコン20mm機銃を連装で2基と単装で6基)、レーダーの新式化が行われた[11]

改装後の1945年6月6日、「ジャマイカ」は御召艦として国王ジョージ6世王妃エリザベスチャンネル諸島訪問に用いられた[12]

9月には東インド諸島艦隊第5巡洋艦戦隊英語版に配属となり、インド洋方面へ展開。後に第4巡洋艦戦隊英語版に移る。大戦終結後の1948年8月には北アメリカ・西インド諸島管区へ展開した[13]

朝鮮戦争

「ジャマイカ」が日本に向かう途中であった1950年6月25日、朝鮮戦争が始まった。「ジャマイカ」とフリゲート「ブラックスワン英語版」は、アメリカ海軍軽巡洋艦「ジュノー」と会合し、朝鮮半島東岸で進撃する北朝鮮軍艦砲射撃した[14]。7月2日には注文津英語版から戻る北朝鮮船団を発見して交戦。船団を護衛していた北朝鮮海軍の魚雷艇と砲艇が反撃してきたが、「ジャマイカ」ら国連軍部隊は損害なしに魚雷艇3隻と砲艇全てを撃沈した[15]。6日後、沿岸を砲撃中に75mm砲弾が「ジャマイカ」に命中し、死者6名・負傷者5名を出した[14]

8月15日に群山を砲撃。9月15日には仁川上陸作戦に伴い、月尾島を砲撃するとともにアメリカ海兵隊第1海兵連隊英語版を支援した。上陸2日後の夜明け、「ジャマイカ」と米重巡洋艦「ロチェスター」は北朝鮮空軍Yak-9 2機と交戦した。1機が「ジャマイカ」に機銃掃射を行い乗員1名が戦死したが、そのYak-9は対空砲火で撃墜された[16]

その後

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1957年6月、潜水母艦「アダマント英語版」とともにキールを訪問した「ジャマイカ」。

「ジャマイカ」は1953年5月から1954年まで、本国で予備役英語版に置かれた。1954年に地中海艦隊での任務のため再就役し、第1巡洋艦戦隊英語版に配属された。ジャマイカ訪問後の1955年6月からチャタム工廠で改装を受けた後、戦隊に再合流した[17]

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トリニティ小教区教会に保存されている「ジャマイカ」の船鐘。

1955年末から1956年初頭まで、「ジャマイカ」は映画『戦艦シュペー号の最後(原題「The Battle of the River Plate」)』で重巡洋艦「エクセター」役として撮影に用いられた。第二次中東戦争に伴い、「ジャマイカ」は1956年11月にマスケティーア作戦英語版に参加した[18]ポートサイドイギリス海兵隊の上陸を援護する砲撃部隊を率いたが、内閣4.5インチ (114 mm)を超える砲による艦砲射撃支援を禁じていたため、主砲の発砲は許可されなかった[19]

「ジャマイカ」はキール訪問後の1957年11月20日に退役し、保管船となる。1960年11月14日にブリティッシュ・アイアン・アンド・スチール・コーポレーション英語版(BISCO)へスクラップとして売却された。同年12月20日にダルミュア英語版のアーノット・ヤング社へ到着した「ジャマイカ」の艦体は、1963年8月15日にトルーン英語版解体完了した[1]

「ジャマイカ」の船鐘はジャージーのトリニティ小教区教会に保存されている。

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栄典

「ジャマイカ」は第二次世界大戦の戦功で3個の、朝鮮戦争の戦功で1個の戦闘名誉章(Battle honours)を受章した[1]

  • 「ARCTIC 1942」
  • 「NORTH AFRICA 1942」
  • 「NORTH CAPE 1943」
  • 「KOREA 1950」

画像

登場作品

戦艦シュペー号の最後(原題「The Battle of the River Plate」)』
重巡洋艦「エクセター (HMS Exeter, 68) 」役を務めた。

脚注

参考文献

外部リンク

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