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デーブ・パブラス

ドイツ出身でアメリカの野球選手 (1962-) ウィキペディアから

デーブ・パブラス
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デビッド・リー・パブラスDavid Lee Pavlas, 1962年8月12日 - )は、ドイツフランクフルト出身のプロ野球選手投手)。ドイツ生まれだがアメリカ国籍である[1]

概要 基本情報, 国籍 ...

読売ジャイアンツでの登録名はデビットと、ファーストネームの末尾が清音の「ト」で登録された。兄弟エレファンツでの登録名は大偉

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来歴・人物

1984年シカゴ・カブスと契約し、1990年8月21日の対シンシナティ・レッズ戦(リバーフロント・スタジアム)でメジャーデビュー。同年はリリーフとして13試合に登板して2勝を挙げるものの、1991年は打ち込まれた1試合の登板のみに終わった。

1993年は6月1日にピッツバーグ・パイレーツと契約するが、メジャーに昇格することなく8月15日に退団。同年9月から10月まで中華職業棒球聯盟(CPBL)の兄弟エレファンツでプレーした。

1994年8月から1995年4月にかけてMLB史上最長のストライキが実施された影響で、1995年のスプリングトレーニングにはオーナー側の命令で代替選手として参加。そのため、スト破りを行った報復措置としてメジャー昇格後も選手会への加入を認められなかった。

ストライキ終了後の1995年ニューヨーク・ヤンキースと契約し、メジャー再昇格を果たす。

1997年は、ヤンキース傘下AAA級コロンバスで1勝3敗・防御率4.62と振るわずメジャー昇格できなかったところに、読売ジャイアンツからオファーを受け6月7日に日本入りして年俸3000万円で入団契約を結んだ[2]。中継ぎや抑えとして併用されていた木田優夫三沢興一を中継ぎに専念させるためのクローザーとして期待され[3]、初登板から4試合連続セーブを挙げるも、その後3試合連続で救援失敗。7月4日に新たなクローザー候補の趙成珉と入れ替わりに二軍に落ち[4]、そのまま一軍に復帰することなく8月26日に球団から契約更新をしない旨を通告され退団した。

1998年に兄弟エレファンツに復帰し、1シーズンプレー。2001年にパイレーツ傘下AAA級ナッシュビルでプレーしたのを最後に現役引退。

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プレースタイル

140km/h前後の速球シンカーチェンジアップを交え、打たせて取る投球を持ち味とした[3]

詳細情報

年度別投手成績

さらに見る 年 度, 球 団 ...

記録

NPB

背番号

  • 46 (1990年 - 1991年、1998年)
  • 42 (1993年)
  • 56 (1995年)
  • 47 (1996年)
  • 67 (1997年)

脚注

関連項目

外部リンク

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