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トミー・マッカーシー
アメリカ合衆国の野球選手 (1863-1922) ウィキペディアから
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トミー・マッカーシー(Thomas Francis Michael "Tommy" McCarthy, 1863年7月24日 - 1922年8月5日)は、アメリカ合衆国マサチューセッツ州ボストン出身のプロ野球選手(右翼手)。右投げ右打ち。
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ニックネームは"Little Mac(リトル・マック)"。1890年代のボストン・ビーンイーターズ(現アトランタ・ブレーブス)で主に活躍、現在の殿堂入り選手の中で唯一、ユニオン・アソシエーション(1884年だけ運営されたリーグ)でのプレー経験を持つ。
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経歴
1884年、この年に創設されたユニオン・アソシエーションのボストン・レッズに投手および外野手として入団する。53試合に出場したものの、通算打率は.215、投手としては0勝7敗と全くいいところがなかった。ユニオン・アソシエーション解体と共に翌年から3年間はナショナルリーグのボストン、フィラデルフィアに所属するが、打率は2割に届かず、レギュラー定着には程遠い状況だった。
1888年にアメリカン・アソシエーションのセントルイス・ブラウンズに移籍。ここでようやく外野手として定着した彼は、持ち前の足の速さを生かせるようになり、打撃成績も急激に向上した。同年は109盗塁、106得点(近年の統計では93盗塁、107得点)を記録。シーズン得点はこの年以後7年連続で100以上を挙げた。打率は1890年に初めて3割を超え (.350) 、マッカーシーは俊足巧打の外野手へと変貌していった。
1891年にアメリカン・アソシエーションの消滅に伴ってボストン・ビーンイーターズに移籍。翌年からボストンはリーグを2連覇。ヒュー・ダフィーとの外野コンビは『ヘブンリー・ツインズ』(双子座の意)と呼ばれた。マッカーシーは外野守備を工夫し、フライをわざと落とし進塁する走者を刺す、といったトリッキーなプレーをいくつも見せていたそうである。
1896年にブルックリンに移籍し同年現役を引退、1922年ボストンにて死去。1946年、ベテランズ委員会によりアメリカ野球殿堂入り選手に選出された。
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詳細情報
年度別打撃成績
- 各年度の太字はリーグ最高
投手成績
- 通算:登板数13、先発6、投球回69.1、0勝7敗、被安打83、被本塁打3、防御率4.93
タイトル
- 盗塁王:1回 (1890年)
監督としての戦績
- 所属:セントルイス・ブラウンズ(アメリカン・アソシエーション)(1890年)
- 戦績:15勝12敗、勝率.556、リーグ最高順位:3位
審判歴
- 在籍・年次・試合数:
- アメリカン・アソシエーション (1889年) 1試合
- ナショナルリーグ (1896年) 1試合
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関連項目
外部リンク
- Baseballhalloffame.org – アメリカ野球殿堂(National Baseball Hall of Fame)による紹介
- 選手の通算成績と情報 MLB、ESPN、Baseball-Reference、Fangraphs、The Baseball Cube、Baseball-Reference (Register)
- 年度別成績(レトロシート)
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