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フアン・アランゴ
ベネズエラのサッカー選手 ウィキペディアから
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フアン・フェルナンド・アランゴ・サエンス(Juan Fernando Arango Sáenz, 1980年5月16日 - )は、ベネズエラ・マラカイ出身の元サッカー選手。ポジションはMF、FW。
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クラブ経歴
要約
視点
キャリア初期
両親はコロンビア出身であり[3]、フェルナンドが生まれる前にベネズエラのマラカイに移住した。14歳の時にベネズエラ中央大学サッカークラブの下部組織に入団し、両親と離れて首都カラカスにひとり移り住んだ。入団直後にU-20チームに昇格し、早熟の天才として一躍世間の注目を集めた[3]。1997年、16歳の時にセグンダ・ディビシオン(2部)のヌエバ・カディスFCからプロデビューし、スリアノスFCでプリメーラ・ディビシオン・ベネゾラーナ(1部)に昇格を果たした。1999年に強豪カラカスFCに移籍したが、6ヶ月プレーした後にメキシコ・プリメーラ・ディビシオン(1部)のCFモンテレイに放出された。
RCDマジョルカ
その後はCFパチューカとプエブラFCにも所属し、2004年には、CFモンテレイ時代に指導を受けたベニート・フローロ監督が率いるスペイン・リーガ・エスパニョーラのRCDマジョルカに1年契約で移籍した[4]。2005年3月20日、セビージャFC戦でDFハビ・ナバーロの肘を受けて意識を失い、頬骨を骨折して舌を飲み込んで一時は危篤状態になる事故があったが[5][6]、2004-05シーズン中に復帰した。2005年9月のレアル・ソシエダ戦ではスローインを受けて振り向きざまにボレーシュートを決めるなどハットトリックを達成し[7]、2005-06シーズンはチーム内得点王となる11得点を挙げた。2006年、EFEはアランゴをリーガ・エスパニョーラでプレーする南米最優秀選手賞の3位に選出した。2007年3月にはスペイン国籍を取得した。2008年3月9日、7-1で大勝したレクレアティーボ・ウェルバ戦ではFWダニエル・グイサとともに自身初のハットトリックを達成した。この試合の活躍などでグイサは2007-08シーズンの得点王(ピチーチ賞)に輝いた[8]。2005-06シーズンからの3シーズンでリーグ戦の欠場はわずか1試合にとどまり、2005-06シーズンは11得点、2007-08シーズンは12得点するなど、多くの得点を挙げた。2009年5月17日のFCバルセロナ戦では彼らに18試合ぶりの黒星をつける同点フリーキックを決めた。
ボルシアMG

2009年6月26日、RCDマジョルカとの契約が切れる1年前に移籍金330万ユーロでドイツ・ブンデスリーガのボルシア・メンヒェングラートバッハと3年契約を交わした[9]。8月1日に行われたDFBポカールのFSVフランクフルト戦でデビューして初得点も決めた。8月9日のVfLボーフム戦でブンデスリーガデビューし、この試合で先制点を挙げた[10]。2009-10シーズンはチーム最多の8アシストを記録した。
キャリア晩年
2014年5月21日、恩師セサル・ファリアスが率いるクラブ・ティフアナに加入し、10年ぶりにメキシコに復帰[11]。2016年1月29日、NASLのニューヨーク・コスモスへ移籍した[12]。
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代表経歴
1999年1月27日のデンマーク戦でベネズエラ代表デビューした。アランゴはベネズエラ代表としてコパ・アメリカに4回出場している。2004年初夏に開催されたコパ・アメリカ2004ではグループリーグ3試合すべてに出場したが、グループリーグで敗退した。母国開催となったコパ・アメリカ2007ではグループリーグを1位で通過し、準々決勝のウルグアイ戦では1得点を挙げたが、1-4で敗れた。2008年1月にヌエバ・カディスFC時代の恩師セサル・ファリアス監督が就任すると、アランゴは代表キャプテンに指名された。コパ・アメリカ2011ではベネズエラの史上初のベスト4進出に貢献。3位決定戦のペルー戦で得点を挙げ、ベネスエラ代表の通算得点記録に並んだ。
個人成績
クラブ成績
- 2012年5月時点
代表得点
- 2015年5月時点
タイトル
- CFパチューカ
- CONCACAFチャンピオンズカップ: 2002
脚注
外部リンク
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