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フランク王の一覧
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フランク人は元来、ドゥクス(軍事的指導者)及びレグリ(小規模の君主)によって位置づけられていた。サリ族のメロヴィング家がフランク人の間で台頭しガロ=ローマ地域を征服、507年には西ゴート王国の領土を征服した。クローヴィス1世の諸子はブルグント及びアレマン人を征服した。彼らはプロヴァンスを獲得し、バイエルンとテューリンゲンを従属せしめた。8世紀にメロヴィング家は後世カロリング家と呼ばれる家系に取って代わられ、そのカロリング家も9世紀までには王国内のその他の家系に取って代わられた。"フランクの王"ないしRex Francorumという観念は12世紀から13世紀にかけて次第に消えていった。
古代ゲルマン人の慣習に従って次第に族長の息子たちの間で領域が分割され、その死後に再び統合されたことから、フランク族の支配者の年表で表すのは困難である。
ドゥクス及びレグリ
初期の支配者
史料には多くの空白が残されていることから初期支配者の一覧は不完全である。
サリ族の支配者
以下に挙げる全員はクロヴィス1世と幾らかの関わりを持ち、最終的には509年以前には王位を追われた。
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メロヴィング朝時代
要約
視点
全フランク人の王
クロヴィス1世は自身の統治期間中にフランク族の小王国を統一し、ローマの将軍シアグリウスの治めるソワソン管区及び西ゴート族が支配するトゥールーズを征服することでガロ=ローマに支配権を打ち立てた。クロヴィス1世はパリを首都としたが、それとともにソワソン、ランス、メス、オルレアンをも主要な居城とした。クロヴィス1世が死ぬと王国は4人の息子間で分割された。
クロタール1世はその兄弟及び後継者が死んだ後に全フランクの地を相続した。クロタール1世が死ぬと王国は再び4人の息子間で分割された。
クロタール2世はブルンヒルド及びその孫を破ることで王国を統合した。しかしながら、623年に特定の勢力を懐柔し且つ国境の安全を確保するために、彼等の王として息子にアウストラシアを与えた。息子で後継者のダゴベルト1世は629年にアキテーヌの副王に任じられてトゥールーズに、634年にアウストラシアに落ち着くことで競い合った。
テウデリク3世は679年に全フランク人の王として認められた。この時からフランク王国は再び単一国家として扱うことができる。しかしそれは内戦のためごく僅かな期間であった。
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カロリング朝
要約
視点
宮宰
→詳細は「en:List of the Mayors of the Palace」を参照
ピピン家は当初はメロヴィング家の王のもとで、最初にアウストラシア、後にネウストリア及びブルグントの宮宰を勤めた。687年にピピン1世はテルトリーの戦いでネウストリアを征服した後にフランク公(dux et princeps Francorum)の称号を用いた。これは同時代の年代記にピピン1世の"統治"の始まりとして記載されている。715年から716年の間、ピピン1世の子孫は後継を巡って対立した。
- 大ピピン(アウストラシア:623年 - 629年及び639年 - 640年)
- グリモアルド1世(アウストラシア:643年 - 656年、662年死去)
- 中ピピン(アウストラシア:680年 - 714年、ネウストリア及びブルグント:687年 - 695年)
- ドロゴ(ブルグント:695年 - 708年)
- グリモアルド2世(ネウストリア:695年 - 714年, ブルグント:708年 - 714年)
- テウドアルド(アウストラシア、ネウストリア、及びブルグント:714年 - 716年)
716年からの内乱においてピピン2世の庶子カール・マルテルがピピン家嫡流のテウドアルドに勝利し、カロリング家を創設した。
フランク国王
- ピピン(752年 - 768年)
- カールマン(768年 - 771年(ブルグント、アレマニア、南アウストラシア))
- カール大帝(シャルルマーニュ)(768年 - 814年(最初はネウストリア、アキテーヌ、北アウストラシアのみ)、774年にランゴバルト王、800年に皇帝。)
- ルートヴィヒ1世敬虔王(813年 - 814年カール大帝と共同統治、814年 - 840年単独統治)
ルートヴィヒ1世は生涯の間に自身の帝国の分割を何回も行った。最終的な分割は838年のヴォルムスで行われ、シャルル1世がアキテーヌを含む西部を、ロタール1世はイタリアを含む東部を、ルートヴィヒ2世はバイエルンを相続することとなった。しかしながら、840年にルートヴィヒ1世が死ぬと帝国は3年間内戦状態に陥った。843年のヴェルダン条約でフランク王国は分割された。ロタール1世は皇帝の称号とイタリアを保持することが許されて新たに中フランク王国を建設することが叶い、その領域は低ロレーヌ、アーヘンを含むラインラント、ブルグンディア、プロヴァンスを含むイタリアから北海に及ぶものであった。シャルル1世はピピン1世の息子であるピピン2世が対立しているアキテーヌの地を確保して、ロタール1世の王国の西側に西フランク王国(現代のフランス)を建国した。ルートヴィヒ2世はバイエルンを確保しロタール1世の王国の東側に東フランク王国(現代のドイツ)を建国した。
以下の表には帝国内の「王」、特にイタリア、プロヴァンス、ネウストリア及びアキテーヌといった王国の西、中、東部の「副王」の全てが載せられているわけではない。
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脚注
参考文献
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