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フランシス・ネイピア (第10代ネイピア卿)
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第10代ネイピア卿及び初代エトリック男爵フランシス・ネイピア(英: Francis Napier, 10th Lord Napier and 1st Baron Ettrick, KT, PC、1819年9月15日 - 1898年12月19日)は、イギリスの外交官、政治家、貴族。

各国の大使・公使を経て植民地インドに赴任し、1866年から1872年にかけてマドラス総督、1872年にインド総督代理を務めた。
経歴
1819年9月15日、スコットランド貴族の第9代ネイピア卿ウィリアム・ネイピアとその妻エリザ(旧姓コクラン=ジョンストン)の長男としてスコットランド・セルカークシャー・サールズテーン城に生まれた[1][2][3]。
1834年10月に父の死によりスコットランド貴族爵位の第10代ネイピア卿位を継承した。ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジで学ぶ[1]。
1840年に外務省に入省し、外交官となる。ウィーンやコンスタンティノープル、ナポリ、サンクト・ペテルブルクの公使館に勤務した後、1857年から1859年にかけて駐アメリカ公使に就任。ついで1859年から1861年にかけて駐オランダ公使、1861年から1864年にかけて駐ロシア大使、1864年から1866年にかけて駐プロイセン大使を務めた[3][2]。駐在先の各国から高い評価を受けていた[1]。1861年に枢密顧問官に列する[3]。
1866年1月にイギリス植民地インドに赴任し、マドラス総督に就任した。彼がマドラス総督に就任した頃、ガンジャム地区で大飢饉があり、その対策に忙殺された。コンスタンティノープル勤務時代に知り合ったフローレンス・ナイティンゲールのインドでの活動を支援した[1]。また多くの灌漑計画を立てた[1]。
1872年2月にインド総督の第6代メイヨー伯爵リチャード・バークが暗殺されると3ヶ月弱ほどインド総督代行に就任した。後任の総督に初代ノースブルック男爵トマス・ベアリングが決まるとイギリスへ帰国した[1]。
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栄典
爵位
1834年10月11日に父ウィリアム・ネイピアから以下の爵位を継承[3][2]。
- マーキストンの第10代ネイピア卿 (10th Lord Napier of Merchistoun)
- (サールズテーンの)第7代準男爵 (7th Baronet "of Thirlestane")
1872年7月16日に以下の爵位を新規に叙される[3][2]
- セルカーク州におけるエトリックの初代エトリック男爵 (1st Baron Ettrick, of Ettrick in the County of Selkirk)
- (勅許状による連合王国貴族爵位)
勲章
- 1864年、シッスル騎士団(勲章)ナイト(KT)[3]
家族
1845年にアン・ロックウッドと結婚。彼女との間に以下の4子を儲ける[3][2]。
- 長男ウィリアム・ジョン・ジョージ・ネイピア (1846-1913)、第11代ネイピア卿位を継承
- 次男ジョン・スコット・ネイピア (1848-1938)
- 三男バジル・ネイピア (1850-1874)
- 四男マーク・フランシス・ネイピア (1852-1919)
脚注
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