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マトラ・MS120

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マトラ・MS120
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マトラ・MS120 (Matra MS120) は、マトラが製作した最後のフォーミュラ1カー1970年から1972年までF1世界選手権に投入された。

概要 カテゴリー, コンストラクター ...
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開発

MS120は後にMS120BMS120CMS120Dと発展した。開発はジェラール・ドゥカルージュベルナール・ボイヤーの指揮の下、パリ南西部のヴェリジー=ヴィラクブレーにあるマトラの拠点で行われた。

シムカとの契約後、1970年にマトラはティレルに対しコスワースではなくマトラ製V12エンジンの使用を依頼した。ジャッキー・スチュワートはマトラV12をテストしたが、ティレルの予算の大部分はフォードによって提供されたものであり、もう1つの重要なスポンサーはルノーとの契約を結んだフランスの国営石油会社エルフであった。ティレルとフォードの関係は、シムカのサポートには障害となった。結局マトラとティレルのパートナーシップは終了した。

マトラは1970年シーズン、ジャン=ピエール・ベルトワーズアンリ・ペスカロロというフランス人ドライバーによるラインナップを選択した。

レース戦歴

要約
視点

1970

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エンジン
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ジャン=ピエール・ベルトワーズが寄贈したマトラ・MS120
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マトラ・MS120D

1970年の開幕戦南アフリカグランプリでベルトワーズは4位でフィニッシュしたものの、ペスカロロは7位に終わった[1]。続くスペイングランプリは両者共にエンジントラブルでリタイアした[2]。第3戦モナコではペスカロロが3位を獲得したが、ベルトワーズはディファレンシャルトラブルでリタイアとなった[3]ベルギーではベルトワーズが3位入賞したが、ペスカロロは電気系トラブルで6位に終わった[4]オランダグランプリはベルトワーズが5位、ペスカロロは8位となった[5]。マトラおよびペスカロロのホームとなったフランスグランプリでは、ベルトワーズが5位となったが、ペスカロロは燃料切れで13位に終わった[6]イギリスグランプリではベルトワーズがホイールトラブル、ペスカロロはクラッシュで両者リタイアとなった[7]ドイツグランプリではペスカロロが6位に入ったが、ベルトワーズはサスペンショントラブルでリタイアとなった[8]オーストリアグランプリではベルトワーズが6位、ペスカロロが14位となった[9]イタリアグランプリではベルトワーズが3位を獲得したが、ペスカロロはエンジントラブルでリタイアした[10]カナダグランプリではペスカロロが7位、ベルトワーズが8位となった[11]アメリカグランプリではペスカロロが8位を獲得したが、ベルトワーズはハンドリングトラブルでリタイアとなった[12]。最終戦メキシコグランプリでは観衆のコントロールができずに開催が1時間遅れたものの、ベルトワーズが5位、ペスカロロは9位となった[13]1971年シーズン、チームはペスカロロに代えてニュージーランド人ドライバーのクリス・エイモンを起用した。

1971

1971年シーズンのドライバーラインナップはベルトワーズが残留し、ペスカロロに代わってクリス・エイモンが起用された。マシンは改良が施され、マトラ・MS120Bとなった。ベルトワーズはマトラのスポーツカーチームが参戦した1971年のブエノスアイレス1000kmで多くのトラブルに見舞われた。このレースではフェラーリイグナツィオ・ギュンティが事故で死亡し、ベルトワーズはその事故の原因を作ったことで国際ライセンスが一時停止された。エイモンはノンタイトル戦のアルゼンチングランプリで優勝し、開幕戦の南アフリカグランプリでは5位となった[14]。第2戦のスペイングランプリでベルトワーズが復帰、6位に入り、エイモンは3位に入賞した[15]モナコグランプリは両者ともディファレンシャルのトラブルでリタイアとなった[16]オランダグランプリはベルトワーズが9位、エイモンはスピンオフでリタイアとなった[17]。ホームグランプリとなったフランスグランプリではエイモンが5位、ベルトワーズが7位となった[18]イギリスグランプリではベルトワーズが7位となったが、エイモンはエンジントラブルでリタイアした[19]ドイツグランプリはエイモン1台のみのエントリーであったが、クラッシュでリタイアとなった[20]。続くオーストリアグランプリをマトラは欠場し、イタリアグランプリは再びエイモンのみのエントリーとなった。エイモンはポールポジションを獲得し、決勝は6位となった[21]カナダグランプリでベルトワーズが復帰したがクラッシュでリタイアに終わり、エイモンは10位となった[22]。最終戦のアメリカグランプリではベルトワーズが8位、エイモンは12位となった[23]

1972年、マトラはエイモンをエースドライバーとして起用し、ベルトワーズはBRMに移籍した。

1972

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フランスGPでMS120Dを駆るエイモン

マトラは1台体制でクリス・エイモンをチームに留め、1972年仕様のマトラ・MS120Cをドライブさせた。マトラはシーズン中盤にはマトラ・MS120Dを投入する。開幕戦のアルゼンチングランプリでエイモンはウォーミングラップ中にギアボックスにトラブルが生じ、スタートできなかった[24]。第2戦の南アフリカグランプリでは15位に終わり[25]、続くスペイングランプリでは再びギアボックストラブルのためリタイアとなる[26]モナコグランプリ[27]ベルギーグランプリ[28]と連続して6位に入り、フランスグランプリでエイモンはMS120Dに乗り換えポールポジションを獲得、決勝ではパンクでピットインするまでレースをリード、コースに復帰後もラップレコードを記録し3位に入った[29]イギリスグランプリでは再びMS120Cを使用して4位に入り[30]ドイツグランプリはMS120Dで15位に終わった[31]オーストリアグランプリでは5位に入る[32]イタリアグランプリはブレーキトラブルのためリタイアとなる[33]カナダグランプリは6位となる[34]。最終戦のアメリカグランプリでは15位に終わった[35]。マトラはその後、ル・マンに集中するためフォーミュラ1から撤退した。

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F1における全成績

要約
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ノンタイトル戦における全成績

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参照

外部リンク

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