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1971年南アフリカグランプリ
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1971年南アフリカグランプリ (1971 South African Grand Prix, アフリカーンス語:Vyfde AA Suid-Afrikaanse Grand Prix[1]) は、1971年のF1世界選手権の開幕戦として、1971年3月6日にキャラミで開催された。
レースはフェラーリのマリオ・アンドレッティが優勝した。
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レース前
開幕前の1月24日にオスカル・ガルベス・サーキットで行われた非選手権レースのアルゼンチンGPで、マトラに移籍したばかりのクリス・エイモンが優勝して幸先のいいスタートを切ったが[2]、チームメイトのジャン=ピエール・ベルトワーズはその2週間前の1月10日に同サーキットで行われたスポーツカー世界選手権の開幕戦ブエノスアイレス1000kmレースでマトラ・MS660を止めたところにフェラーリ・312PBを駆るイグナツィオ・ギュンティが激突し、ギュンティは命を落とした[3]。ベルトワーズはこの事故の責任を問われ、裁判所で15日間拘留された後、過失致死罪で告発された。ベルトワーズは保釈金を支払ってフランスに帰国したが、フランス自動車競技連盟(FFAS)に3ヶ月間のライセンス停止の裁定を受けた[4]。
エントリー
要約
視点
主要チーム
前年の終盤5戦のうち4戦で優勝したフェラーリはV型8気筒のフォード・コスワース・DFVエンジン搭載車よりも圧倒的であり、シーズン開幕前はエースのジャッキー・イクスがチャンピオンの最有力候補と予想されていた[5]。強力な水平対向12気筒エンジンにも改良の手を加えるとともに、新車312B2の制作にも着手した。312B2は開幕前のテストで初披露されたが、クレイ・レガツォーニがテスト中に312B2を激しくクラッシュさせたため、本レースからの投入は見送られた[6]。ドライバーラインナップもエースのイクスと前年に衝撃的なデビューを果たしたレガツォーニに加え、アメリカでのレースがない場合にマリオ・アンドレッティが参加するという強力な布陣であった[7]。前年のチャンピオンチームであるロータスは若いエマーソン・フィッティパルディとレイネ・ウィセルが残留し[8]、前年に登場した72Cを走らせる傍ら、プラット・アンド・ホイットニー製のガスタービンエンジンを搭載する四輪駆動車56Bの設計も進行していた[2][注 1]。前年のシーズン終盤にコンストラクターとしてデビューを果たしたティレルはジャッキー・スチュワートとフランソワ・セベールが残留し、前年はスチュワートのみに自製マシン001が与えられた[注 2]が、長身のセベール用にホイールベースを延長した002が用意された[9]。前年に大々的に新規参入してコンストラクターズランキング3位となったマーチはドライバーラインナップをロニー・ピーターソン、アンドレア・デ・アダミッチ、アレックス・ソラー=ロイグに一新した[10]。新車711はユニークな曲線フォルムとノーズの先端に載せられたテーブル状のウィングが設置される個性的なスタイルであった[11]。エンジンはピーターソンとソラー=ロイグがDFVを、デ・アダミッチのみアルファロメオ(V8)を使用する[10]。ジャック・ブラバムが前年をもって引退し、共同創設者のロン・トーラナックに後事を託されたブラバムはベテランのグラハム・ヒルが加入し[10]、本レースのみ地元出身のデイヴ・チャールトンがラッキーストライクの支援を得てスポット参戦する[2]。マクラーレンはデニス・ハルムとピーター・ゲシンが残留し、ライジングレートサスペンションが特徴の新車M19Aをハルムが走らせる(ゲシンは前年型のM14A)[12]。BRMはエースのペドロ・ロドリゲスが残留し、マーチから移籍のジョー・シフェールと新人ハウデン・ガンレイが加わった。マシンは前年型P153の改良版でチゼル(鑿)ノーズが特徴の新車P160が投入された[12]。マトラはジャン=ピエール・ベルトワーズが残留し、マーチから移籍のクリス・エイモンが加入した[12]。ベルトワーズは前記の通りライセンスの停止により欠場を余儀なくされた[4]。マシンは前年型MS120の改良版であるMS120Bを使用する[12]。サーティースは前年をもってチーム活動を終えたロブ・ウォーカー・レーシングチームと、同チームのスポンサーであったブルックボンド/オクソの支援を受け[2]、オーナーのジョン・サーティースが自ら設計したTS7の改良熟成型TS9を走らせる。2台目にはアウト・モトール・ウント・シュポルトとアイフェラント・キャラバンのスポンサーを得たロルフ・シュトメレンがブラバムから移籍してきた。これに加えて本レースのみブライアン・レッドマンがTS7でスポット参戦する[9]。
プライベートチーム
ウィリアムズはシャシーをマーチに切り替え、アンリ・ペスカロロを走らせる[10]。ベテランのヨアキム・ボニエは自身のチームからマクラーレン・M7Cを走らせる[12]。本レースのみ参加するチーム・ガンストンはジョン・ラブがマーチ・701を、ジャッキー・プレトリウスがブラバム・BT26Aを走らせる[10]。
タイヤ
1960年代にF1を支えたダンロップが前年をもって撤退し、アメリカのグッドイヤーとファイアストンがしのぎを削る構図ができあがった。前年にダンロップを使用していたティレルはグッドイヤー、BRMはファイアストンに変更した。特にティレルはシーズン開始前からグッドイヤーのタイヤ開発に深く関与した[13]。
エントリーリスト
- 追記
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予選
要約
視点
ジャッキー・スチュワートが練習走行から速さを見せ、2番手のクリス・エイモンに0.6秒差を付けてポールポジションを獲得した[4]。3番手のクレイ・レガツォーニがスチュワートとエイモンとともにフロントローに並ぶ[注 3]。マリオ・アンドレッティはエマーソン・フィッティパルディと2列目を得て、ジョン・サーティース、デニス・ハルム、ジャッキー・イクスは3列目に並ぶ。地元出身のデイヴ・チャールトンは12番手に入る健闘を見せた[2]。
予選結果
決勝
要約
視点
スタートでクレイ・レガツォーニが首位に立つ一方、ジャッキー・スチュワートとクリス・エイモンは大きく出遅れた。エマーソン・フィッティパルディ、ジャッキー・イクス、デニス・ハルム、ペドロ・ロドリゲス、マリオ・アンドレッティがレガツォーニに続き、スチュワートはその後方を走る。ジョン・サーティースもスタートに失敗して11位、エイモンは14位まで順位を落とした[2]。ハルムは4周目にフィッティパルディを抜いて2位に浮上し[4]、17周目にはレガツォーニを抜いてから首位を独走していく。レガツォーニはハルムに抜かれてからしばらく2位を走行していたが、サーティースとアンドレッティにも抜かれた。数周後にアンドレッティがサーティースを抜いて2位に浮上した[2]。レースも残り4周となったところで、首位を走行するハルムのマクラーレン・M19Aの後部が横に流れ始めた。サスペンションからボルトが外れたのが原因で[17]、ハルムは優勝を目前にピットインを余儀なくされた。これでアンドレッティが首位に立ち、F1初勝利を挙げた。スチュワートはレース終盤までにサーティースとレガツォーニを抜いて2位でフィニッシュした。レガツォーニが3位で、フェラーリは表彰台の2つを占めた。4位のレイネ・ウィセルまでがアンドレッティと同一周回で、エイモンが5位、修理を終えてコースに復帰したハルムは6位に終わった[2]。
レース結果
- 優勝者マリオ・アンドレッティの平均速度[19]
- 180.804 km/h (112.346 mph)
- マリオ・アンドレッティ - 1:20.3(73周目)
- クレイ・レガツォーニ - 16周 (1-16)
- デニス・ハルム - 59周 (17-75)
- マリオ・アンドレッティ - 4周 (76-79)
- 達成された主な記録
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第1戦終了時点のランキング
- 注: トップ5のみ表示。前半6戦のうちベスト5戦及び後半5戦のうちベスト4戦がカウントされる。
脚注
参照文献
外部リンク
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