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ヤマニンウエーブ

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ヤマニンウエーブ日本競走馬種牡馬福永洋一とのコンビで1972年秋の天皇賞に優勝し、同年の優駿賞最優秀5歳以上牡馬に選出された。

概要 ヤマニンウエーブ, 品種 ...

略歴

馬齢は当時の表記とする。

4歳時の1970年2月8日にデビュー、初勝利までに3戦を要するなど順調に勝ち上がれず、4、5歳時は重賞への出走もないまま、2年を条件馬として過ごした。1972年4月に格上挑戦で鳴尾記念に臨んで重賞に初出走すると、次走・33戦目の1000万下条件戦に優勝しオープンクラスに昇格する。

昇格後、春シーズン3戦を消化し、3ヶ月の休養を経て秋を迎える。この緒戦に出走した朝日チャレンジカップから、かつて条件戦で1戦のみコンビを組んだ福永洋一を鞍上に迎えた。するとこの競走で2着、次走のハリウッドターフクラブ賞で3着と好走を見せ、続く京都記念(秋)に優勝し、38戦目で重賞初制覇を果たした。

次走に迎えた第66回天皇賞で、八大競走に初出走。出走馬の中に八大競走優勝馬が1頭もおらず、この年春の天皇賞で2着、前走でハリウッドターフクラブ賞をレコードタイムで優勝していたキームスビィミーが1番人気、ヤマニンウエーブは15頭立ての7番人気という評価であった。レースはスタートの瞬間にオウジャが落馬競走中止という展開で始まり、直後に新田幸春騎乗のパッシングゴール(8番人気)が先頭に立ち、そのまま他馬を大きく引き離していった。同馬は2周目の向正面で30-40馬身程度の大逃げを打ち、その後方でヤマニンウエーブは14番手を進んでいた。しかしこの展開に、福永は向正面から1000メートル近くのロングスパートを掛けると、最後の直線で逃げ粘るパッシングゴールを猛追、ゴール寸前にクビ差捉えての優勝を果たした。枠連配当は10,210円で、天皇賞史上初の万馬券となった。

その後は8歳まで競走生活を続行、勝利は挙げていないが、重賞で4度の2着を記録している。

競走馬引退後は日本中央競馬会が内国産種牡馬として購入、日本軽種馬協会に寄贈され、宮城県で繋養される[1]。3年間の供用で産駒は28頭と環境に恵まれず、1978年に千葉県の牧場に移動し種牡馬生活の続行が試みられた。しかし同年12月4日の放牧中に右前脚を骨折。予後不良と診断され、安楽死の措置が執られた。

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競走成績

血統表

ヤマニンウエーブ血統(キングファーガス系(エクリプス系) / 5代内アウトブリード(血統表の出典)

*ラヴァンダン
Lavandin
1953 鹿毛 フランス
父の父
Verso
1940 鹿毛 フランス
Pinceau Alcantara
Aquarelle
Variete La Farina
Vaya
父の母
Lavande
1936 鹿毛
Rustom Pasha Son-in-law
Cos
Livadia Epinard
Lady Kroon

ヤマナミ
1961 黒鹿毛 日本
ゴールデンウエーブ
1951 黒鹿毛 日本
ミナミホマレ *プリメロ
フロリスト
ユウコ *レイモンド
優宝
母の母
シルバーウエーブ
1952 鹿毛 日本
Balloch Obliterate
Cinna
*シルバーガル
Silver Gull
Nizami
Star Lass F-No.C3

脚注

参考文献

外部リンク

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