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リカルド・クアレスマ
ポルトガルのサッカー選手 ウィキペディアから
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リカルド・アンドラーデ・クアレスマ・ベルナルド(Ricardo Andrade Quaresma Bernardo, 1983年9月26日 - )は、ポルトガル・リスボン出身のサッカー選手。元ポルトガル代表。ポジションはミッドフィールダーで主に左右のサイドミッドフィールダーとしてプレーしている。ポルトガルでの発音はクァレズマかクァレジュマに近い。
優れたプレーヤーを輩出してきたスポルティングCPのアカデミーの出身であり、先輩にルイス・フィーゴ、後輩にクリスティアーノ・ロナウドやナニらがいる。
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経歴
要約
視点
クラブ
ポルトガルの首都・リスボンにて生まれる[1]。スポルティングCPのアカデミーに練習生として加入し、17歳であった2001-02シーズンの開幕を前に、当時の監督のラースロー・ベレニの采配によってトップチームに昇格。 一部リーグで28試合に出場して3得点を挙げ、チームの二冠達成に貢献した[2][3]。
2003年、クアレスマは600万ユーロの年収とファビオ・ロッケンバックとのトレードでスペインの名門・FCバルセロナに引き抜かれた[4]。バルセロナでの1年目は10試合に先発出場・12試合に途中出場し、5-0で勝利したホームでのアルバセテ・バロンピエ戦で得点を記録した[5]。
しかし2003-04シーズン最終週で足の甲を骨折し、噂されていたUEFA EURO 2004とU-21欧州選手権の両方に欠場することを余儀なくされた[6]。また監督のフランク・ライカールトとの確執も生じ、ライカールト指揮下のチームではプレーしないと公に宣言するまでに至った[7]。
シーズンの終了後、クアレスマはポルトガル代表のデコと入れ替わる形で、ポルトガルの名門であるFCポルトに移籍した[2][8]。2004-05シーズンはSLベンフィカとのスーパーカップにて唯一となる得点を挙げ、勝利に貢献するなど順調なスタートを切る[9]。また試合は2対1で敗北したものの、UEFAスーパーカップのバレンシアCF戦でも得点を挙げた[10]。
初のシーズンでは32試合に出場し5得点を挙げ、リーグ2位に貢献した。翌2005-06シーズンには、ドリブルだけではなくクロスから多くの好機を演出しリーグのアシスト王となり、29試合に出場してリーグとカップの二冠に大きく貢献した。活躍が代表監督・ルイス・フェリペ・スコラーリの目に止まり、2006 FIFAワールドカップの予選で招集を受け試合にも出場するものの、本大会のメンバー入りはならなかった。[要出典]
2006-07シーズンにはリーグ2連覇を達成した。自身も26試合に出場し6得点を記録し年間最優秀選手を受賞。技術的にも精神的にも成長を見せ、代表も継続的に呼ばれるようになり、左右のウイングとして先発出場も増えた。シーズンオフにはリーガ・エスパニョーラのアトレティコ・マドリードや、プレミアリーグのリヴァプールFCといったビッグクラブへの移籍も噂されたが残留し、リーグ3連覇とチャンピオンズ・リーグでの躍進を目指す事となった。[要出典]

2008年8月に移籍期限ぎりぎりでイタリアの強豪インテルに1860万ユーロという高額な移籍金、加えてペレのトレードという事で加入した[11][12]。「ビッググラブでプレーしたい」という本人の希望に加え、インテル監督に就任したジョゼ・モウリーニョが強く求めていた選手の1人であった。デビュー戦のホームでのカルチョ・カターニア戦では、トレードマークのカーブシュートで得点を記録し、2対1での勝利に貢献した[13]。しかしこのシーズンは先発11試合の出場に留まり、さらに監督のモウリーニョも「クアレスマは素晴らしい選手だが、イブラヒモビッチはさらに素晴らしい働きをしてくれる[14][15]」と語るなど、同じポジションのイブラヒモビッチに活躍を譲る事となる。シーズン終了後には、ラジオ局のリスナーが選ぶイタリア年間最悪選手賞である「金のバケツ賞」を受賞してしまい[16]、その後はチャンピオンズリーグの登録メンバーからも外れる等、イタリアでの挑戦は散々な結果となってしまった。
2009年2月冬の移籍市場で期限ギリギリでチェルシーFCにレンタル移籍[6][17]し、5日後のホームでのハル・シティ戦で初出場を果たし、試合は0-0の引き分けに終わった[18]。また3月7日のFAカップ6回戦のコベントリー・シティ戦では、アレックスへのクロスを送り得点をアシストした。当時クアレスマは「インテルにいたときはあまり自信がなかった。良いプレーができなかったし、満足していなかった。でも、チェルシーに来てからは自信を取り戻す事ができた。インテルでは味わえなかった喜びが、僕に戻ってきた。」と語っている[19]。 シーズン終了後、インテル側はジェノアへの放出を検討する[20]が本人が拒否し、インテルに復帰した[21]。復帰後は引退した同じくポルトガル出身のレジェンドであった、ルイス・フィーゴが付けていた背番号7番を引き継いだ[22]。だがチームは三冠を達成したものの、自身はわずか13試合の出場に終わった[23][24]。

2010年6月13日、トルコのベシクタシュJKに移籍した[25]。UEFAヨーロッパリーグ予選第3ラウンドのプルゼニ戦で加入後初ゴールを決めた[26]他、トルコカップ決勝のイスタンブール・バシャクシェヒルFK戦では33分に先制ゴールを決め、チームもPK戦の末に4対3で勝利し、試合後には決勝戦のマン・オブ・ザ・マッチに選ばれた[27]。
2011年4月25日の試合では、クアレスマはチームメイトのニハト・カフヴェジと試合中に口論を起こしたが、チームメイトの仲裁により和解した[28]。また3対1で敗れた3月8日のヨーロッパリーグのラウンド16の1stレグのアトレティコ・マドリード戦では、ハーフタイムでイスマイル・コイバシュとの交代を指示された事で、ドレッシングルームで監督のカルロス・カルヴァリャルと口論となり、「俺がいなけりゃアンタもここにはいなかっただろう」と口にし、水筒を投げつけたと報じられた[29]。この一件でクラブからは無期限の出場停止処分を受け、契約満了を6か月残して契約を解除した[30][31]。
2013年1月にUAEリーグのアル・アハリに加入した[32][33]。しかし、2013年5月に契約を解除した。
アル・アハリ退団後、無所属の状態が続いていたが、2014年1月1日、5年半ぶりにポルトに復帰した[34]。
2015年7月、ベシクタシュに復帰した。
2019年8月29日、カスムパシャSKへの完全移籍が発表された[35]。2019-20シーズンはリーグ戦27試合に出場し4ゴールを挙げた[36]。2020年7月29日、カスムパシャを退団することが発表された[36]。
代表
代表では、2003年にデビューを飾ると、以降徐々に出番を得た。2007年からはコンスタントに出場してUEFA欧州選手権に3大会連続で出場するなど、代表に定着した。EURO 2016では、ラウンド16のクロアチア戦で決勝ゴールを挙げる[38]など、ポルトガル代表の初優勝に貢献した。FIFAワールドカップには2018年のロシア大会に34歳で初出場を果たすと、グループリーグ第3戦のイラン戦で1得点を挙げている。
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人物・エピソード
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個人成績
クラブ
代表歴

出場大会
試合数
- 国際Aマッチ 80試合 10得点(2003年-2018年)[39]
得点
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タイトル
- スーペル・リーガ : 1 (2001-02)
- タッサ・デ・ポルトガル : 1 (2001-02)
- タッサ・ダ・リーガ : 1 (2001-02)
- インターコンチネンタルカップ : 1 (2004)
- スーペル・リーガ : 3 (2005-06, 2006-07, 2007-08)
- タッサ・デ・ポルトガル : 1 (2005-06)
- タッサ・ダ・リーガ : 1 (2005-06)
- FAカップ : 1 (2008-09)
- セリエA : 1 (2009-10)
- コッパ・イタリア : 1 (2009-10)
- UEFAチャンピオンズリーグ : 1 (2009-10)
- テュルキエ・クパス : 1 (2010-11)
- ポルトガル代表
- UEFA U-17欧州選手権 : 1 (2000)
- UEFA欧州選手権 : 1 (UEFA EURO 2016)
- 個人
- ポルトガル最優秀選手賞 : 2 (2005, 2006)
- ポルトガル・ゴールデンボール : 1 (2007)
- ビドーネ・ドーロ : 1 (2008)
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脚注
外部リンク
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