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中尾宏
日本の出版者、政治家 (1924-1992) ウィキペディアから
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中尾 宏(なかお ひろし、1924年(大正13年)5月19日[1] - 1992年(平成4年)7月12日[1])は、日本の政治家。自由民主党衆議院議員(1期)。
人物・来歴
鹿児島県川内市(薩摩川内市)生まれ[2]。旧制鹿児島中学校(現 鹿児島高等学校)を経て[2]、旧制鹿児島高等商業学校(現 鹿児島国際大学)卒[3]。満洲に渡り、満州電業社に勤務する[3]。後に帰国し改造社を創業した山本実彦の秘書になる。
1972年の第33回衆議院議員総選挙において鹿児島2区から無所属で立候補して当選[4]、自民党に入る。衆議院議員は1期務めた。1976年の第34回衆議院議員総選挙で落選[4]。以後、立候補しなかった。
1983年に世界出版を創設[5]。雑誌『世界春秋』の主幹となる[3]。
金丸信の密使
中尾は、自民党の金丸信と近しい関係で、金丸に言われて、秘密の難しい仕事を請け負っていた[6]。首相になる前の竹下登が右翼から受けた「ほめ殺し」と呼ばれる妨害工作を抑え込む工作もその一つだった[7]。1987年秋の自民党総裁選挙に向けて、高松市の右翼団体「日本皇民党」が竹下のイメージダウンさせようと、街頭宣伝でがなりたてた。「竹下登は金儲けのうまい政治家。竹下をぜひ総裁に」街宣車でそう連呼して回った[7]。金丸の指示を受けて、中尾は、東京佐川急便の元社長、渡辺広康に、「ほめ殺し」をやめさせる工作を依願した[7]。渡辺は、暴力団稲川会の石井進会長に頼んで、日本皇民党に接触してもらい、ようやく「ほめ殺し」をやめさせることができた[7]。
金丸は1990年秋、社会党の田辺誠・副委員長と一緒に、北朝鮮を訪問。平壌で、金日成朝鮮労働党主席と会談し、日朝両国政府に、国交樹立の交渉開始を促す、自民党、社会党、朝鮮労働党の3党共同宣言を出した[8]。そのころ、在京国際情報筋の間では、「金丸は多額の金を平壌に持参し、金日成に渡した」といううわさが広がっていた[8]。金丸は帰国後、特使として中尾を米バージニア州のCIA本部に派遣して、訪朝の結果を説明させた[9]。中尾は当時のリチャード・カー長官代行と会い、金丸の北朝鮮訪問に関する説明と弁解に終始した[5]。だが、中尾の話はすでにCIAが入手済みの情報だったと見られている[5]。
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脚注
参考文献
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