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中島敏文
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中島 敏文(なかじま としふみ、1950年7月29日 - )は、広島県高田郡吉田町(現・安芸高田市)の元騎手・元調教師である。
実父・中島時一も元騎手、中島啓之は実兄。
来歴
父・時一[2]は戦前の騎手・調教師で、牝馬のヒサトモで1937年の東京優駿をレコードタイムで制覇している。父母の疎開先の広島で生まれ、時一のダービー優勝時には啓之と敏文はまだ生まれていなかった。
1968年に京都・上田武司厩舎の騎手候補生となり、1969年3月にデビュー。同期には田村正光、上野(伊藤)清章、須貝四郎、楠孝志、内田国夫、西浦勝一がいる。同1日の京都第5競走障害5歳以上未勝利・フェアダッシュで初騎乗を果たすが、落馬で競走中止というほろ苦いデビューとなった。30日の阪神第2競走4歳未勝利・サンダイウメサカエで初勝利を挙げ、2着に西浦が騎乗するアラムシャが入って新人のワンツーとなった。1年目の同年から2桁勝利の11勝を挙げ、1980年まで12年連続でマーク。3年目の1971年からは平地の騎乗に専念し、1979年の日経新春杯ではスズカシンプウでキャプテンナムラ・ホクトボーイを破って重賞初制覇。同年は栗東・上田三千夫厩舎に一度移籍した後、美浦・藤本晋厩舎へ移籍。パークボーイでセイユウ記念とアラブ王冠(秋)も制するなど重賞3勝を挙げ、自己最多の25勝をマーク。1980年は福島で7勝(夏2勝・秋5勝)、新潟で5勝(春3勝・夏2勝)を挙げるなど17勝をマーク。1984年には引退まで全て手綱を執ったハッピーオールトンで格上挑戦のクイーンステークスを制すが、エリザベス女王杯では鞍ずれにより競走を中止する。1985年には中央時代全て手綱を執ったチェリーフットでウインターステークスを制すが、それまでの追い込みから一変して、先行逃げ粘りで勝利。1986年にはフェブラリーHではハツノアモイの2着に入り、帝王賞にも参戦。1988年の福島記念ではダイナダルタニアンでユウミロクに先着の3着に逃げ粘り、同馬では1989年1月16日の中山第11競走初富士ステークスを15頭中15番人気で制す。1990年12月1日の中山第7競走3歳新馬で後に自身が管理するモンタミールで最後の勝利を飾り、同16日の中山第1競走アラブ3歳オープン・アブクマホマレ(8頭中6着)が最後の騎乗となった。1991年引退。
引退後は同年3月から厩舎を開業し、7月に初出走。1999年にハイフレンドコードが阪神牝馬特別を制し、唯一の重賞勝利を記録。
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騎手成績
主な騎乗馬
- スズカシンプウ(1979年日経新春杯)
- パークボーイ(1979年セイユウ記念・アラブ王冠 (秋))
- ハッピーオールトン(1984年クイーンステークス)
- チェリーフット(1985年ウインターステークス)
調教師成績
主な管理馬
- ハイフレンドコード(1999年阪神牝馬特別)
- その他
出典・脚注
関連項目
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