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上田武司 (競馬)
調教師 ウィキペディアから
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上田 武司(うえだ たけし、1909年4月4日[1] - 1979年2月13日[1])は、日本中央競馬会 (JRA) ・栗東トレーニングセンターに所属していた調教師。福岡県出身。養子に上田三千夫がいる。
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(1953年日本経済新春杯表彰式)
来歴
1909年、福岡県小倉市北方(現・北九州市小倉南区北方)で生まれる[1]。
1923年、福岡県立中学明善校(現・福岡県立明善高等学校)を中退し、1924年7月、小倉競馬倶楽部(小倉競馬場)の森文一厩舎に入門する[1]。
1927年、騎手兼調教師免許を取得、小倉競馬場に厩舎を構え独立する[1]。
1951年10月14日、チャレンジカップのサチホマレで重賞初制覇[1]。
1954年4月18日、皐月賞をダイナナホウシユウで勝利しクラシック競走初制覇[2]。
1962年から1963年・1966年・1968年から1976年に日本調教師会関西本部長を務める[2]。
1962年8月19日、小倉競馬第2競走で管理馬9頭を出走させ(17頭立て)、1〜5着を独占した(JRAの一競走最多出走厩舎記録)[2]。
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人物
ものを言わない口数の少ない人物で、弟子の中島敏文の結婚式の際に、「挨拶をさせられるなら出席しない」といったという[1]。
1959年ごろからの厩務員組合との労使交渉をスムーズにまとめた。調教師の布施正は「頭がよく、人の意見に耳を傾け、部下を使うのがうまかった」としている[2]。
主な管理馬
主な厩舎所属者
※太字は門下生。括弧内は厩舎所属期間と所属中の職分。
参考文献
- 『優駿』2010年5月号 江面弘也「続・名調教師列伝 第3回 上田武司」
脚注
関連項目
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