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中野龍雄

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中野 龍雄(なかの たつお、1965年6月16日 - )は、日本プロレスラー茨城県下妻市出身。身長172cm、体重88kg。現在のリングネームは中野 巽耀(たつあき、"巽の部首は己でなく巳が正しい表記")である[2]

概要 中野 巽耀, プロフィール ...

来歴

学生時代は柔道に打ち込むかたわら、藤波辰爾にあこがれプロレスラーを志す[3]。中学3年生時に地元市議会議員を通じ国際プロレスを紹介され、ラッシャー木村に入門を直訴したが[4]、体が小さかったためかなわなかった。

その後上京し、仕事の傍らトレーニングを積み、当時木村が所属していた旧UWFの入門テストを受け、合格し入門する。入門テストの場には木村も姿を見せ、中野の姿を見ると嬉しそうに微笑んだという[5]

1984年8月29日、高崎市中央体育館における廣松智戦でデビュー。

1986年、新日本プロレスとUWFの業務提携時は、新日本の若手の船木優治・野上彰組に、安生洋二とタッグを組んで臨んだ試合はUWFスタイルと新日本スタイルが融合する好試合となり前座の名物カードとなった。

1987年、新日本プロレスのヤングライオン杯に出場。

1988年4月、新生UWFの旗揚げに参加。 新生UWFでは無骨なキャラクターと正面から立ち向かうスタイルで会場人気を集め、特に博多スターレーン大会では、内藤恒仁戦で見せた「しゃちほこ固め」は当時のファンに強烈な印象を残し、客席から「俺は中野が好きだぁー」「俺もだぁー」の声がするほどの支持を得て「博多男」と呼ばれた。

新生UWF解散後は高田延彦UWFインターナショナルに参加。ベイダー初参戦の相手を勤めたが、秒殺KOされる。なおこの対戦は、中野のキャラクターにほれ込んだ、ある週刊プロレス記者の熱烈なプッシュにより実現したとされる。

1995年10月9日、UWFインターナショナルと新日本プロレスの対抗戦では、東京ドームのセミファイナルで橋本真也と激突。40kgの体重差を見せ付けられ、7分少々で、垂直落下DDTからの三角絞めでギブアップ敗北を喫してしまい、橋本からは「役不足。蹴りだけじゃ勝てないよ」と失格の烙印を押されてしまう。ただし、9月に行われた前哨戦では、安生洋二とのコンビで長州力永田裕志組と対戦し、永田から十字固めでギブアップを奪っている。

その後もUのリングで、佐々木健介、長州力と激突するが敗れる。このころ、Uの同志対決でも後輩の山本健一(現・山本喧一)や高山善廣に敗れたりと、負けが続く。

1996年、離脱後は全日本プロレスWARなどを筆頭に、各インディー団体で活躍。

1998年、シュートボクシングのリングでエマニュエル・ヤーブローとバーリトゥード戦を行うが、1分足らずで敗退。何戦か総合格闘技の試合を行うが戦績は芳しくない。

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人物

負けん気の強さが持ち味で頻繁に鼻血を出す。ゴング前の握手にはまず応じない。また、試合前のインタビューの時に落ち着きがなく、体を常に痙攣させているのも特徴。

他の入門者と違い、俗にいう“UWFスタイル”への思い入れは薄い。自身のファイトスタイルを「入門時に刷り込まれたものを実践しているだけ」としている[6]

得意技

体格に恵まれない分を気迫と根性で補うファイトが信条。試合内容は典型的なUWFスタイルである。

  • しゃちほこ固め
相手の体を急角度で搾り上げる片逆エビ固め。その搾り上げる様がしゃちほこを思わせるため名付けられた。中野の代名詞的な技。

戦績

さらに見る 総合格闘技 戦績 ...
勝敗 対戦相手 試合結果 大会名 開催年月日
×ドス・カラスJr1R 4:05 チョークスリーパーDEEP2001 6th IMPACT in ARIAKE COLOSSEUM2002年9月7日
×エマニュエル・ヤーブロー1R 1:17 上四方固めSHOOT THE SHOOTO XX1998年4月26日

入場テーマ曲

使い始めた当時はCD音源がなく、映画を録画したビデオテープからダビングしたものを使用していたが、週刊プロレス誌上で音源提供を呼びかけたところ、ジョー山中本人からテープがプレゼントされた。

出演

映画

テレビドラマ

著書

脚注

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