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串本節
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解説
「串本節」は古くは「岬節」や「大島節」などさまざまな名前で呼ばれていた[1]。また囃子言葉から「エジャナイカ節」「オチャヤレ節」とも呼ばれる[2]。
発祥はよくわかっていないが、下総を中心に唄われた「白桝粉屋」を元とする「おいとこそうだよ」が幕末の頃に門付芸人あるいは獅子舞によって持ち込まれたものと伝えられる[2][3]。かつては「エジャナイカエジャナイカ オチャヤレ」の囃子で神輿を運ぶ行列とともに唄われていたもので[2]、毎年10月に行われる串本の潮崎本之宮神社の秋祭りで、特には祭礼当日の10月15日にしか唄われなかった[1]。のちには座敷に持ち込まれ三味線とともに唄われる座敷唄となった[2]。
1924年(大正13年)、ダグラス DWCによる初の飛行機による世界一周への挑戦では串本に寄港する計画が立てられており、寄港の際には多くの新聞記者らが取材のために串本を訪れた[1][3]。このとき、予定よりも日程が遅れたために当時の串本町町長が宴席を設けたが、この宴席で記者らに串本節が披露された[1][2]。これをきっかけに串本節の流布がはじまった[2]。この年、京都・大阪の花街に伝わると串本節は流行し、広く唄われるようになった[4]。また、大正から昭和にかけて活躍した漫才師の砂川捨丸が九州をはじめに各地の興行で串本節を唄い、そのレコードが発売されたことも広く知られる要因の一つとなった[1][2][3][5]。
のちに伴奏がつき、1950年(昭和25年)には日本舞踊花柳流による振りがつけられて「正調串本節」として整えられ、郷土の保存会で保存・普及されることとなった[5][6]。しかしながら、この正調串本節は動作が難解で踊ることが難しかったため、夏まつりなどで踊りやすいレクリエーション風の振りつけが必要とされ、数年後には中山義夫によりフォークダンスの概念を用いた、より簡単な振り付けが新たに作られた[6]。串本節の踊りは「女踊り」「男踊り」「道中踊り」の3種類となり[5][7]、串本町で毎年行われる「串本まつり」では「道中踊り」が披露される[7]。
1978年(昭和53年)には、太平洋戦争中にニューギニア島で戦った日本兵から串本節を教わったパプアニューギニアの少年がいた。この日本兵はニューギニアで戦死したが、のちに元少年はテレビに出演したことをきっかけに串本町に招待され、日本兵の遺族らと出会ったことが朝日新聞で報じられた[8]。
2017年の「機動戦士ガンダム サンダーボルト」では、マンボ風にアレンジされた串本節が使われた。これは江利チエミ版を元にアレンジされたもので小田朋美によって歌唱された[9][10]。
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歌詞
要約
視点
詞形は七七七五調[4]。串本節には多くの節があり、上記以外にも様々な節で唄われる。なかでもよく知られる「ここは串本 向いは大島 仲を取り持つ 巡航船」「一つ二つと 橋杭たてて 心届けよ 串本へ」の節は毎日新聞の記者で歌人でもあった矢倉広治によるもので、第一節は矢倉が中学生の頃の作である[1]。これは紀伊大島と串本を結ぶ定期巡行船を唄ったもので、1910年(明治43年)にはじめて臨江倶楽部が就航させてから1999年(平成11年)に橋が開通するまでの間、運行されていた[4][14]。
「エジャナイカ エジャナイカ エジャナイカナイカ」の箇所は「アラ ヨイショヨーイショ ヨイショヨーイショ ヨーイショ」と歌われる場合が多く、江利チエミによる「串本節」(『チエミの民謡集』)や美空ひばりによる「串本節」(『民謡うた紀行』)、21世紀では民謡クルセイダーズの「串本節」(『エコーズ・オブ・ジャパン』)でもこれが歌われている。
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脚注
参考文献
外部リンク
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