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丸岡莞爾

日本の土佐藩士、官僚、歌人 ウィキペディアから

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丸岡 莞爾(まるおか かんじ、1836年7月11日天保7年5月28日) - 1898年明治31年)3月6日)は、幕末土佐藩士、明治期の官僚歌人官選県知事位階正四位。旧姓は吉村。字は山公。通称は三太。は長俊。は建山、掬月、蒼雨など。

経歴

土佐藩士・吉村三助長秋と磯子(村山氏)の長男として生まれる。祖父は吉村内作信俊といった。後に丸岡家を継ぐ[1]鹿持雅澄から国学を学んだ。坂本龍馬とも交際した。脱藩後に龍馬が和歌集の写しを自身の家族に手紙で求めたほど文化的素養が高く、人柄も温厚だった[2]

脱藩後は、長崎にあった土佐藩の商業機関で、岩崎弥太郎の下で働き、慶応4年(1868年)にはカムチャッカへの航海を経験した[3]

明治3年4月1870年5月)、土佐藩大従事となり、さらに権大属を務める。明治4年3月1871年4-5月)、大阪府に転じ権大属に就任し、大属、権典事を歴任。

明治4年11月4日(1871年12月15日)、左院に転じ、中議生となり、大議生、四等議官を歴任。1874年9月、海軍省五等出仕に就任した。

1875年、式部権助に就任。以後、兼一等掌典、式部助、式部権頭を歴任。1883年内務省に転じ内務大書記官となる。以後、兼造神宮奉行、内務省社寺局長、兼造神宮支庁副使などを歴任した。

1888年9月、沖縄県知事に就任。皇民化教育を推進。1892年7月、高知県知事へ転任。選挙干渉によって荒れていた県政の鎮静化に努めたが、調整に難航し、同年11月に同知事を退任した[4]

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年譜

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栄典・授章・授賞

外国勲章佩用允許

親族

  • 妻 喜久は同藩士の下田度義の長女。大正7年3月20日没。享年71。
  • 長男の丸岡桂は歌人・能楽書林創業者、孫の丸岡明は作家。
  • 妹 吉村まき(吉村は莞爾の旧姓)は、武市半平太の甥、島村衛吉に嫁いだ。
  • 妹 西山千賀 その息子西山麓という人物についても含めて、一族のことは安岡章太郎『鏡川』に書かれているが、作家の安岡も一族とは縁戚である[16]

著作

  • 歌集『蒼雨余滴』。丸岡桂『長恨 丸岡桂全集』(観世流改訂本刊行會、1921年)に所収。

脚注

参考文献

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