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丸正自動車製造

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丸正自動車製造
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丸正自動車製造株式会社(まるしょうじどうしゃせいぞう、Marusho Motor Co., Ltd. )は、1948年から1967年まで日本にあった自動車製造企業である。主力製品のオートバイブランド「ライラック号」は先進的なメカニズムの採用で知られ、自動車技術会の「日本の自動車技術180選」に選出されている。

概要 種類, 市場情報 ...
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ライラック・ランサーマークV・LS38型(1959年発売)
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概要

要約
視点

創業まで

創業者の伊藤正は、1929年(昭和4年)本田宗一郎が設立したアート商会浜松支店(現在の浜松アート商会)に入社し、自動車修理工としての経験を積んだ。

1938年(昭和13年)に本田の下から独立した伊藤正は、兄と共同で、浜松市野口町(現在の浜松市中区野口町及び中央)に「株式会社丸正商会」を創業した。これがのちの丸正自動車製造株式会社の創業に当たる。「丸正商会」の基幹事業は、整備や点検を軸とする自動車修理工場と輸入及び国産の自動車部品販売であった。1941年(昭和16年)の太平洋戦争勃発後、戦時中数回に渡って米軍に攻撃された「浜松空襲」で会社設備や取引先が被災してしまい、丸正商会は止む無く操業停止に追い込まれた。創業者の伊藤正は、師匠である本田宗一郎を頼り、本田が創業したピストンリング製造の「東海精機」に一時入社した。

伊藤は戦後の1946年(昭和21年)に事業を再開、濵松市上池川町22番地(現在の浜松市中区城北1丁目)に本社機能を移転させ、自動車修理販売及びトラックボディの製作を生業とする「丸正商会」を再興させた。

オートバイの製造

1948年(昭和23年)5月、社名を「丸正自動車製造株式会社」と改称し、二輪車製造ブームに乗じる形で基幹事業を自動二輪車製造に切替えた。丸正の技術陣は、一般的なオートバイの動力伝達機構であるチェーンを廃して、ドイツのBMWを参考に1950年10月シャフトドライブ機構を搭載したオートバイの試作に成功した[1]。このML型はチャンネルフレームに3馬力、サイドバルブ150ccの単気筒エンジンを備えていた[2]。車名は、伊藤の「」から同じ季節に咲く花として連想された「ライラック」の名が与えられた。

「ライラック号」開発の背景には、後年本田技研工業の社長となる河島喜好の同級生で、丸正自動車製造のエンジン技術者だった溝渕定の伊藤への進言があった。当時の日本製オートバイ用チェーンは技術の未熟や材質面の問題で耐久性が低く、とかくトラブルのもとになっていたため、溝渕ら技術陣は不満を抱いており、チェーン自体を廃する思い切った改良に踏み切ったのである。ML型の生産を1951年(昭和26年)3月に開始、市場に本格参入する。

ベビーライラックのヒットと販売体制の拡充

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ベビーライラックSF

1953年(昭和28年)4月、東京本社で ヘッドライト回りに燃料タンクを一体化した独創性溢れるデザインのモーターバイク(原動機付自転車)「ベビーライラック」JF型90ccの発表会を開催した[3]。当時のオートバイ市場は拡大傾向にあって事業が順調に推移して行く中、販売網拡張のため前月3月には本社機能を浜松市から東京都中央区日本橋通3丁目に移転させたところだった[3]

ベビーライラックが登場した時代はチェーン駆動どころか自転車に2サイクルエンジンを積み、タイヤへの摩擦駆動やベルト駆動で走る、文字通りの原動機付自転車が珍しくなかった時期だった。4サイクルエンジンを採用し、女性ユーザーをも視野に入れてフレームを低く下げ、徹底的な軽量化[4]を図ったメンテナンスフリーのシャフトドライブ車は高く評価された。ライラックの先進性は、ホンダ・スーパーカブが登場する5年も前にペダルを廃した日本式のモペットを世に問いヒットしたところにも表れている[5]

販売拡充のため全国に支店が設けられ[6]松竹歌劇団を起用して東京大阪間でキャラバン隊を走らせ、コマーシャルソングとして藤山一郎に「ライラックの歌」を歌わせたほか、大相撲のラジオ中継スポンサーや映画の制作など“チエンのないオートバイ”をキャッチコピー[3]として大掛かりなプロモーションが繰り広げられた[7]。社長の伊藤は技術よりも販売・宣伝に予算を注ぎ込み[8]、下請けメーカーを多用した多品種少量生産路線をひた走っていた[9]。部品加工の外注比率は昭和35年の時点で90%と極端に高く、自社工場は組立が中心だった[10]

同年7月には、愛知県名古屋市及び福岡県福岡市に支店を開設、11月に東京都中央区八重洲に本社分室を増設する。事業拡大が続き、1954年(昭和29年)4月には、大阪市に支店を新設して強力な販売網を確立。右肩上がりの業績を背景に1957年(昭和32年)7月には、東京都中央区宝町2丁目に丸正ビルを完成させ、日本橋から本社を移転するに至った。

ライラック号は1953年3月の名古屋TTレースにおいて好成績をおさめた。更に1955年の第一回浅間火山レースにも参加し、250ccのライト級でライラックSY型が優勝する。19のメーカーが参戦する中、下馬評では「非力」と見られていたが、有力と目されたホンダやヤマハスズキを破っている。また、ベビーライラックJF型も125ccクラスのウルトラライト級に参戦し、90ccながらチーム2位に入賞した[6]。レースでは耐久性の高さが大いに功を奏し、技術力を世に知らしめた。

経営不振から倒産まで

戦後、日本各地には膨大な数の中堅~零細のオートバイメーカーが存在していた。1951年には浜松だけで29社も存在したが、1953年までの3年間で淘汰が進み、ホンダ、スズキ、ヤマハ、ロケット商会と丸正の5社にまで減っていた[6]。淘汰の時代を切り抜けた丸正ではあったが、1950年代後期には再び二輪車メーカーごとの技術開発・生産能力と営業力に著しい格差が生じるようになり、淘汰の圧力を受ける。

丸正は1958年には株式を公開[6]し、遅まきながら外注比率の引き下げ[10]と生産設備の増強に着手。工事は1960年6月に完了し月産2,000台の生産能力を持つに至った[11]。ところがベビーライラックの後継車として2サイクルの新エンジンを搭載した「ニュー・ベビーライラック」DP90型の開発に失敗する。荷物運搬用の実用車を求めるユーザーに対して華奢なDP90はさっぱり売れず、1958年の発売からわずか1年で生産が中止された[12]。経営不振に陥ったことでメインバンクの大和銀行からスズキとの提携を持ちかけられたが、伊藤は本田宗一郎への忠義立てとして提携を拒否している。

会社存続の危機のなか、V型2気筒エンジンを搭載した高性能車の発表が続いた。なかでも1959年に発売された250ccの「ライラック・ランサーマークV」LS38型は国産ツーリングバイクの先駆けとも呼ばれ、ファンの絶賛を受けた[13]

苦境の中、デザイン・メカニズムとも画期的なスクーターであった50cc原付ライラックAS71」を1960年に開発すると、新三菱重工からこれを同社のシルバーピジョン・ブランドで販売するOEM申し入れがあり、伊藤はこれを引き受けた。販売は月産最低5000台を見込み、三菱の出資を受けて工場の第二期拡張工事にも着手している[14]。当座はこれでしのげると見られたものの、三菱自身も当時二輪車製造の縮小を企図しており、ホンダ・スーパーカブをはじめとした50ccモペットにも太刀打ちできなかった。AS71を改良したシルバーピジョン・ゲールペット(CM10型)の生産台数は当初の約束と相違して発売からわずか5か月、トータル5173台を生産したところで打ち切られた[15]。また既に販売網を譲渡していたことから丸正は事実上市場から締め出された。再度スズキとの提携に動き出すもスズキも経営不振で救済に乗り出せず、1961年10月12日に倒産した。

結局ホンダの下請けとなることを前提に和議を認められたものの、伊藤は下請けを請け負わず新型車の開発に邁進する。本田宗一郎も伊藤が下請けを請け負わないのを見て見ぬふりをしていた。

結局1966年(昭和41年)12月に全ての事業を閉鎖し、丸正自動車は法人としての会社組織を解散し清算された。溝渕定ら優秀な技術陣を擁しながら、とかく宣伝面を重視しがちで、独立にこだわるワンマン経営者であった伊藤正をいさめ、補佐できる経営面の人材(本田技研工業での本田宗一郎に対する藤沢武夫にあたるマネジメント担当者)に恵まれなかった[16]ことが、丸正のメーカーとしての寿命を縮める結果になった。

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海外への輸出

1960年(昭和35年)の時点では毎月平均200~300台の輸出を行っていた。オートバイメーカー第二位の実績で、仕向地はアメリカオーストラリアマラヤ連邦香港台湾などで[11]、1961年にはオランダにも進出[14]している。倒産後、1962年全日本自動車ショウにおいて発表した「ライラックR92」では高速道路網が発達しているアメリカへの輸出で活路を見出そうとしたが、債権者らはアメリカへの渡航費用でさえ借金返済に充てるべきと督促を繰り返し、アメリカでは仲介の外交官が高額な手数料を要求する事態[17]になり、経営不振の打開には至らなかった。

倒産後の技術者たち

創業者の伊藤は、旧本社工場跡地に『ライラック荘』と名付けた部屋数8室の旅館を建設、1980年代には改装してアパートに転業した[18]。オーナーとして余生を送り2005年に死去。

エンジン技術者の溝渕は部下のブリヂストンサイクル工業への移籍を取りまとめ、残務整理を終えた後に自身も平社員として移籍。チャンピオンホーマーやブリヂストンスポーツ90を手掛ける[19]。そこから台湾でノックダウン生産を行う台隆工業へ派遣され、ブリジストンの二輪撤退後は同社に転職してオートバイ産業に携わっている。1972年に独自のスクーター「オースター50」を開発。同車はヤマハ、スズキをしのぎホンダに迫る売れ行きとなった[20]。1981年、同社にスズキの資本が入り台鈴工業と社名を改めた際に退職して帰国し、愛知県の二輪部品メーカー東海電装に技術者として迎えられる[18]。後に超小型餃子製造機を開発して浜松餃子ブームのきっかけを作った後、2000年に株式会社テクノマイスを創立して、歩行器の開発に取り組んでいる。

また、丸正自動車で金型設計等に携わった請井由夫は、倒産後に自動車部品等を製造する東亜工業所を創立した。その後社名を東亜工業と改め、現在は小型餃子製造装置の専業メーカーとして知られる。

製品一覧

要約
視点
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丸正・ライラック CF40型(1960年発売)
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丸正・ライラック R92型(1964年発売)

個性的なV型2気筒エンジンの採用で知られる。また、スクーターのAS71、レーサー、一部の試作車を除く全ての市販車がシャフトドライブを採用していた。

軽二輪車

軽二輪車は 1949年(昭和24年)に軽自動車として4サイクル車150cc、2サイクル車100ccで制定[21]1953年(昭和28年)に4サイクル250cc以下、2サイクル150cc以下に拡大され[21]1955年に一律250cc以下に統一[22]

  • 1948年5月 - ライラックML
    148cc単気筒SV、ボア×ストローク55×62mm。2.43kW(3馬力)/4000rpm。シャフトドライブ[23]。変速装置は自動遠心式[24]
  • 1951年9月 - ライラックLB
    148cc単気筒、ボア×ストロークは57×58mm。出力をやや増やし、変速装置を二段変速に改めた[2]
  • 1952年11月 - ライラックKD
    148cc単気筒OHV、3.5馬力。フレーム構造をプレスフレームからパイプフレームに変更し、弁方式をOHVに改める[25]名古屋TTレースで団体4位に入賞。
  • 1953年5月 - ライラックKE
    ライラックKDを200ccにボアアップしたモデル。
  • 1954年3月 - ライラックKH
    243cc単気筒OHV、3段変速を採用[24]
  • 1954年10月 - ライラックSY
    243cc単気筒OHV。タイヤサイズを19インチに小径化。単気筒時代のヒット作となった[24]
  • 1956年4月 - ライラックUY
    243cc単気筒OHV。フレーム構造を見直しリヤサスペンションをプランジャー式からスイングアーム式に改める[24]。第1回浅間火山レースで優勝した経験をフィードバックした。
  • 1956年4月 - ライラックUY-2
    243cc単気筒OHV[24]
  • 1957年3月 - ライラックBR
    175cc単気筒OHV[24]
  • 1957年10月 - ライラックCY-2
    243cc単気筒OHV[24]
  • 1957年10月 - ライラックCY-3
    243cc単気筒OHV[24]
  • 1958年9月 - ライラックFY-5
    243cc単気筒OHV。15.5馬力/5500rpm。4段変速を採用[24]
  • 1959年4月 - ライラックLS-18
    248ccV型2気筒OHV。18.5馬力/7500rpm。丸正初のV型2気筒[24]。ヴィクトリア  (en:Victoria (motorcycle)) ・ベルグマイスターに範を取ったとも言われる。圧縮比は7.8で18.5馬力。挟み角60度、ボア×ストロークは54×54mm。
  • 1959年8月 - ライラック・スポーツLS-38
    248ccV型2気筒OHV。20.3馬力/8000rpm[24]。圧縮比8.2。
  • 1960年3月 - ライラック・スポーツLS-18改良型
    248ccV型2気筒OHV。19.5馬力/7800rpm。1959年型と比べ実用面を重視したセミスポーツ車[24]
  • ライラックC82 - 150ccV型2気筒。

原動機付自転車(小型自動二輪車)

原動機付自転車は1951年に軽二輪車未満の区分として制定[21]。排気量は4サイクル車90cc、2サイクル車60cc以下[26]。1954年に4、2サイクルの区分を撤廃して排気量125cc以下に拡大、50ccを境に第一種原動機付自転車と第二種原動機付自転車に分けられた[26]

  • 1953年4月 - ベビー・ライラックJF
    87cc、2.4kW(3.2馬力)/5500rpm。燃料タンクをヘッドライトと一体化した非常に特徴的な風貌を持つ。変速はグリップチェンジ前進2段[24]。排気量は当時90ccまで無試験許可制だったことに合わせたもの。
  • ベビー・ライラックJF2 - 104cc。
  • ベビー・ライラックSF - 90cc。
  • ベビー・ライラックSF2
  • ベビー・ライラックSF3 - 125cc単気筒OHV。
  • 1955年4月 - ライラック・サンキューAQ
    124cc単気筒OHV。従来の軽二輪車と同じ24インチタイヤを採用[24]
  • 1957年4月 - ライラックBT
    124cc単気筒OHV[24]
  • 1958年3月 - ニュー・ベビー・ライラックDP90
    丸正としては珍しい2サイクルエンジン車。90cc単気筒、5馬力/5000rpm[24]
  • 1958年3月 - ライラックEN-1
    123cc単気筒2サイクル。7.8馬力/5000rpm[24]
  • 1958年 - ライラックEN-2
    123cc単気筒2サイクル。7.8馬力/5000rpm[24]
  • 1959年8月 - ライラックCS-28
    124ccV型2気筒OHV。10.5馬力/8000rpm[24]。V型2気筒の実用車。
  • 1960年9月 - ライラック・モペットAS71
    前後ともカンチレバーサスペンションを持つ50ccスクーターで、秋岡芳夫揮下のKAKデザイン研究所による極めて進歩的な美しいデザインを持つ。サスペンション変更を施されて三菱にOEM供給され、ピジョン・ゲールペットの名前で販売されたが、三菱側の背信により量産1000台ほどで初期頓挫、新工場まで建設した丸正の倒産を招いた。
  • 1960年6月 - ライラック・スポーツCF-40
    125ccV型2気筒OHV。11馬力/8000rpm。国産125ccクラス初のツインキャブを採用[24]
  • ライラックPV - 125cc。
  • ライラックC81 - 125ccV型2気筒。

普通自動二輪

  • 1954年4月 - ライラック・ドラゴンTW
    339cc水平対向2気筒。11馬力/4800rpm。国産初の水平対向エンジンセルモーターを採用したオートバイ[24]。200kg近い車重で失敗となる[7]
  • 1954年10月 - ライラック・ランサーSW
    339cc水平対向2気筒。12馬力/4800rpm。TWを改良し、車重を180kg弱に抑える[24]
  • 1959年10月 - ライラック・スポーツMF-39
    288ccV型2気筒OHV。23.5馬力/7800rpm[24]
  • 1959年10月 - ライラックMF-19
    288ccV型2気筒OHV。21.4馬力/7400rpm[24]
  • 1964年 - ライラックR92マルショーST
    493cc水平対向2気筒、26.2kW(35.6馬力)/6300rpm。
  • 1966年 - ライラックR92マルショー・マグナム・エレクトラ
    493cc水平対向2気筒、圧縮比9.6で、27.9kW(38馬力)/7000rpm。

試作車、工場レーサー

  • 1948年頃 - タイガー - 最初の試作車。ベルト駆動で約6台を製造して販売[27][28]
  • 1955年 - ライラックSYZ
    250cc単気筒OHV。ライラックSYの圧縮比を上げ、エアクリーナーを外して高出力化した。当時無名の伊藤史朗が駆り浅間火山レースで優勝した。
  • 1964年 - ライラックC103
    125cc水平対向2気筒SOHC、10.9kW/11000rpm。160ccも試作された。
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脚注

参考文献

関連項目

外部リンク

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