トップQs
タイムライン
チャット
視点
亀田忠
アメリカ合衆国の野球選手 (1912-1976) ウィキペディアから
Remove ads
亀田 忠(かめだ ただし、1912年9月8日 - 1976年9月22日)は、アメリカ合衆国ハワイ準州(Territory of Hawaii)出身のプロ野球選手(投手)。日系二世である。大阪タイガースに所属した亀田敏夫は実弟。
シーズン与四球の日本記録保持者(280与四球)。
Remove ads
来歴・人物
1938年にイーグルスに入団。速球と大きく落ちるカーブを武器に活躍した。反面、コントロールに難があり、「三振か四球か」という豪快なピッチングであった[1]。1940年と1941年の2度ノーヒットノーランを達成しているが、そのときもそれぞれ9個、6個の四死球を記録している。また、1939年にはノーヒットに抑えながら10四死球と2失策で失点(2-1で勝利)という試合も記録した。三振と四死球にまつわる記録には事欠かず、以下のようなものを残している。
- 1938年9月16日、対巨人戦で延長14回を投げ、20奪三振。これは現在も延長戦も含めた場合の1試合最多奪三振記録である。ただし、この試合でも序盤は四球に苦しみ、結果は引き分け(5-5)であった。
- 1940年のシーズンに297奪三振を記録。これは当時のプロ野球記録[2]で、戦後の1955年に金田正一が350個の記録を樹立するまで破られなかった。
- 1939年のシーズンには283個の与四死球を記録し、こちらは現在もプロ野球記録。翌1940年も282個を記録した。在籍中の通算では一試合(9イニング)平均6.32個の与四死球を記録し、これは平均被安打(5.89本)より多い。押し出しも通算で34個という成績であった。
1941年6月、日米関係の悪化に伴い、アメリカ政府の命令により、実弟の敏夫や堀尾文人(阪神)・長谷川重一(黒鷲)とともに帰国した。 帰国した1941年を除きすべてチームの試合数の半分以上に登板した[1]。戦後1947年に来日して、後楽園球場でプロ野球観戦をしている。戦後はハワイ州政府に勤務した[3]。
1976年、脳梗塞で死去した。
Remove ads
詳細情報
年度別投手成績
- 各年度の太字はリーグ最高、赤太字はNPBにおける歴代最高。
- イーグルスは、1940年に黒鷲(黒鷲軍)に球団名を変更
タイトル
- 最多奪三振:2回 (1938年春、1940年)※当時連盟表彰なし
記録
背番号
- 25(1938年 - 1941年)
Remove ads
脚注
参考文献
関連項目
外部リンク
Wikiwand - on
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Remove ads