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井出正徳

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井出 正徳(いで まさのり)は、江戸時代初期の武士

概要 凡例井出正徳, 時代 ...

出自

井出正徳は、井出正員の子である。正員は分家を創設し井出家(正員系)を興しており、正徳はその次代にあたる。血筋としては( – 正直 – 正俊 – 正信正員 – 正徳)となる。

略歴

寛政重修諸家譜[1](以下『寛政譜』)によると、以下のようにある。

寛永18年(1641年)15歳の時に初めて徳川家光に拝謁する。承応3年(1654年)2月に小姓組に列し、寛文5年(1665年)12月に家督を継ぐ。寛文9年(1669年)閏10月に勤めを賞され黄金三枚を賜る。

天和2年(1682年)6月に納戸頭となり、同年12月23日には廩米三百俵を加えられ[2]、同27日に布衣が認められる。

元禄元年(1688年)8月、勤務よろしからざる事があったとして小普請へ降格し、出仕を停められる[3]。翌年6月には許されるもののなお拝謁を憚り、翌3年(1690年)に許される。

元禄10年(1697年)7月に廩米を采地に改められ、伊豆国君沢郡および常陸国真壁郡の内に700石を知行される。宝永3年(1706年)7月に致仕正徳4年(1714年)正月2日、享年88歳で死去。墓所については「高田の法輪寺に葬る。のち代々葬地とす」とある。

元禄11年(1698年)『伊豆国知行渡村々高辻覚』より、伊豆国君沢郡各地(上修善寺村・伊豆佐野村・安久村)を知行地としていることが知られる[4]。また、同じく元禄期の郷帳でも同様である[5]

『寛政譜』の井出正方に「其後病者たるにより、家をつがず」とあるように、正方は家督を継がず正方の子である正矩(正徳の孫)が家督を継いだ。

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同族絶家の問題

正徳の二男であり大宮代官であった井出正基が元禄5年(1692年)11月に死去した。正基は井出家(正俊系)を継いでいたが[注釈 1]、正基には男子が居なかった。そのため生前、弟の正栄に井出家(正俊系)の家督を継がせることを幕府に要望していた。

しかし正基には租税滞りがあり、この家督相続は幕府に認められなかった[6]。結果井出家(正俊系)は絶家となり、『寛政譜』には「治左衛門正基がとき罪ありて家たゆ」とある[1]。また同時に大宮代官も解体となった[7]

正徳は宝永3年(1706年)7月に致仕し、孫の正矩へ家督を譲った。その際、正栄に200石を分け与えた。これは分家を創設することを意味するが、幕府はこの行いを「思慮なき」と捉えた[1]。幕府は正基の租税滞り分を返納することを、正徳およびその孫の正矩に厳命した。一方『徳川実紀』に「次左衛門某が負金は償ひ納るに及ばずとなり」とあるように、享保4年(1719年)6月には返納が免除されている[8]。以後、井出家(正栄系)は存続している。

脚注

参考文献

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