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井出正矩
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出自
井出正矩は井出正方の子であり、井出家(正員系)の系譜である。『寛政重修諸家譜』[1](以下『寛政譜』)の井出正方に「其後病者たるにより、家をつがず」とあるように、父は家督を継がず正矩が継ぐ形となる。
略歴
『寛政譜』によると、以下のようにある。宝永3年(1706年)7月に祖父の家を継ぐ形で家督を相続し、500石を知行される(叔父の井出正栄に200石の地を分かち与える)。同年10月に初めて徳川綱吉に拝謁する。
宝永5年(1708年)閏正月には叔父の井出正基の租税滞り分の返納を命ぜられる(同族絶家の問題を参照)[注釈 1]。
享保9年(1724年)10月に小姓組の番士となり、宝暦元年(1751年)11月に享年66で死去。
『御家人分限帳』には「五百石 常陸 伊豆 藤左衛門子 井出十左衛門 戌二十三」とあり、正矩23歳のとき常陸国および伊豆国に500石の知行地があった[2]。正矩は祖父である正徳より家督を譲られるが、『寛政譜』に「叔父弥五郎正栄に二百石の地をわかち与ふ」とあるように、うち200石(700石のうち)は正栄に分かち与えている[注釈 2]。
そのため『御家人分限帳』には「弐百石 常陸伊豆 太左衛門分知 井出弥五郎 戌四十二」とあり、井出弥五郎(正栄)の200石が分知であることが記される[3]。
正基の租税滞り分は『徳川実紀』に「次左衛門某が負金は償ひ納るに及ばずとなり」とあるように、享保4年(1719年)6月には免除されている[4]。
家督は正矩の子である正賢が継いだが、正矩の死去から数年後の宝暦6年(1756年)2月に死去している。そのため、正賢の子である正武が10歳で家督を継いでいる。
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脚注
参考文献
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