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井出正員

江戸時代前期の武士 ウィキペディアから

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井出 正員(いで まさかず)は、江戸時代前期の武士

概要 凡例井出正員, 時代 ...

出自

井出正員は、三島代官・大宮代官であった井出正信の二男である。正員は分家を創設し、井出家(正員系)を興している。

寛永諸家系図伝』には既に没している正信の子として「正勝」」「茂稔(茂純)」が記されるが、正員は記されていない。一方『寛政重修諸家譜』巻千百一(以下『寛政譜』)には、正信の子として「正勝」「正員」「茂純」が記される。

略歴

『寛政譜』によると、以下のようにある。慶長15年(1610年)11歳の時に初めて徳川家康に拝謁する。元和元年(1615年)に徳川家光が父正信の蒲原[注釈 1]の邸宅に赴いた際、病に臥していた父に代わり家光に拝謁し、富士川まで送る。

寛永11年(1634年)7月に家光が上洛した際は供奉し、寛永15年(1638年)には勘定となる。翌16年(1639年)に大和国郡山へ赴き、同18年(1641年)3月には畿内および西国を巡見する。翌19年(1642年)6月に西国を巡見していたところ、兵具等を不必要に多く携えているとして嫌疑をかけられ、改易となる。慶安4年(1651年)にはこれを許され廩米四百俵を賜り小普請となり、後に勘定へ復している。

万治3年(1660年)、堀田正信改易に伴う処務のため下総国佐倉へ赴き[1]寛文元年(1661年)には再度下総国佐倉へと赴き、佐倉城の城引渡役を務める。寛文5年(1665年)12月5日に66歳で死去。

『寛政譜』にあるように正員は家康および家光に拝謁している。家光の拝謁は『徳川実紀』に「伊豆代官井出藤左衛門正信が蒲原の宅にも立より給ふ。正信病臥しければ子八十郎正員拝謁して富士川まで送り奉れり」とある[2]。その後、父正信の死去に伴い家督相続している。『徳川実紀』寛永12年(1635年)6月30日条には「伊豆代官井出藤左衛門正信死して子十左衛門正員家をつぐ」とある[3]

『寛政譜』より正員が勘定を務めていることが知られるが、『徳川実紀』に「勘定組頭井出十左衛門正員」とあるように[4][5]勘定組頭となっている。

家督は子の正徳が継いだ。

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脚注

参考文献

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