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代王嘉

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代王嘉(だいおう か、生没年不詳)は、中国戦国時代末期のの王(在位:前227年 - 前222年)。代はの亡命政権であるため、趙の最後の王ともされる。

概要 代王 趙嘉, 王朝 ...

生涯

嘉は悼襄王の長子として生まれ、太子に立てられた。だが、悼襄王は寵愛していた倡后の産んだ公子遷(幽繆王)を後を継がせるため、公子嘉を廃嫡して、公子遷を太子に立てた[1]

悼襄王9年(前236年)、悼襄王が死去すると、公子遷が即位した[1]

幽繆王8年(前228年)、の将軍王翦は趙の国都邯鄲を陥落させた。幽繆王は秦によって捕虜とされ、趙は事実上滅亡した。しかし、公子嘉は一族数百人を連れて、北方の(現在の河北省張家口市蔚県南西部)へ逃れた。そして、趙の大夫らに擁立され、亡命政権である国を建て、代王を名乗った。代はと連合を組み、上谷に軍を置いた[1][2]

代王嘉元年(前227年)、太子丹荊軻を用いて秦王政(後の始皇帝)を暗殺しようとしたことから、秦軍が燕へと侵攻した[3]。燕・代連合軍は応戦したものの、易水の西で王翦と辛勝率いる秦軍に敗れた[2]

代王嘉2年(前226年)、燕の国都のが陥落し、燕王喜と太子丹は遼東に逃れた[2][3]。その後、代王嘉は燕王喜に「丹を殺して秦王に首を献じれば、秦王の怒りは必ず解け、燕の社稷は幸いにも続くことでしょう」と書を送り、太子丹を殺して、秦に和を請うよう勧めた[3]。燕王喜は太子丹を殺し、その首を秦に献じた[4]。秦王政はこれを受け入れ、進軍を中止した。しかし、この和睦は束の間に過ぎなかった。

代王嘉6年(前222年)、王賁率いる秦軍は遼東を攻め、燕王喜を捕虜とし、燕は滅亡した。王賁はさらに代の地にも攻め入り、代王嘉を捕虜とし、代も滅ぼした[2]。こうして、趙は名実ともに滅亡し、王統が途絶えた。

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脚注

参考文献

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