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燕王喜

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燕王喜(えんおう き、生没年不詳)は、中国戦国時代の最後の君主(在位:紀元前254年 - 紀元前222年)。姓はまたは[1]。子に始皇帝の暗殺を謀ったことで有名な太子丹がいる。

概要 燕王喜, 王朝 ...

生涯

孝王3年(紀元前255年)、父の孝王が崩御し、燕王に即位した[2]

燕王喜4年(紀元前251年)、宰相栗腹を使者としてに送り、両国の友好を深めようとした。この頃の趙は長平の戦い白起に大敗して40万の兵を失ってからまだ立ち直っておらず、帰国した栗腹の報告でそれを知った燕王喜は考えを改め、趙を攻めようとした。楽毅の子の昌国君楽間は「趙は四方を敵に囲まれた戦国で、その民は戦に慣れています。攻めてはなりません」と諫言したが、燕王喜とその郡臣は聞く耳を持たなかった[2]

燕王喜は60万もの大軍を興し、戦車二千輌を用意した。軍を2つに分け、40万は栗腹が率いてを、もう20万は卿秦が率いてを攻めるよう命じた。自らも軍を率いて出陣しようとすると、大夫の将渠が「趙と盟約を結び、その王の酒宴に五百金を供したのに、使者が帰った途端に攻め入るなど不吉なことです。この戦いに勝ち目はありません。王は決して自ら行ってはなりません」と諫言したが、燕王喜は怒って将渠を蹴り飛ばした。趙は名将廉頗に20万の兵をもって迎え撃たせ、鄗において栗腹を破り、さらに楽毅の一族の楽乗が5万の兵を率いて代で卿秦を破った[3]。楽間は楽乗を頼って趙に亡命した。廉頗は敗走する燕軍を500里余り追撃し、燕の国都を包囲した。燕が和睦を請うと、趙は必ず将渠を和平交渉の担当者にするよう要求し、将渠のもとで和睦が成立すると薊の包囲は解かれた(鄗・代の戦い中国語版[2]

燕王喜12年(紀元前243年)、趙の李牧が燕を攻め、武遂方城を失った。同年、燕は劇辛を将として趙を攻めさせたが龐煖に迎撃され、劇辛は討ち取られ、燕軍2万が捕虜とされた[2]

燕王喜23年(紀元前232年)、燕は秦と盟約を結び、人質として太子丹を差し出した。丹はかつて趙で秦王政(後の始皇帝)が人質の境遇にあった際、共に人質として交友関係があったが、秦で秦王政に冷遇されたのを恨んで逃亡し燕に帰国した[4]

燕王喜28年(紀元前227年)、丹は荊軻を刺客として秦王政の暗殺に送るが失敗し、激怒した秦王政は王翦に燕を攻めさせた[5][4]。燕はとともに抗戦するが、燕・代連合軍は易水の西で秦軍に敗れた[4]

燕王喜29年(紀元前226年)、秦軍により薊が陥落し、東方の遼東に逃れた[2][5][4]。秦軍が執拗に燕を追討したため、燕王喜は代王嘉の勧めもあり、使者を送って丹を斬首し秦に献じた[4][6]。結果、燕と秦は一時的に停戦したと思われる。燕王喜は遼東を収め、一応は命脈を保った[5]

燕王喜33年(紀元前222年)、秦の王賁の侵攻を受けて遼東が陥落し、燕王喜は捕らえられて燕は滅亡した(燕攻略[5]

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脚注

参考文献

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