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佐倉丸 (2代)
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佐倉丸(さくらまる)は日本郵船の貨物船[6]。S型貨物船の一隻[7]。
なお、先代として1887年に英国で建造したものを日本郵船が購入した初代佐倉丸がいる。
文中、トン数表示のみの船舶は日本郵船の船舶である。
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船歴
三菱重工業長崎造船所で建造され、1939年(昭和14年)8月5日に起工、同年12月13日に進水し、1940年(昭和15年)3月30日に竣工した[8]。
竣工後、「佐倉丸」は東航世界一周航路に就航した[9]。
1941年(昭和16年)1月21日に陸軍に徴傭され、6月5日にいったん解傭されたが、7月12日に再度徴傭された[10]。「佐倉丸」は防空基幹船に指定され、八八式七糎野戦高射砲6門、九八式二十粍高射機関砲8門が搭載された[11]。
「佐倉丸」は開戦劈頭、コタバルへの上陸作戦に参加する。船団は12月4日に三亜より出撃し、7日に目的地ごとに分かれた[12]。「佐倉丸」は「綾戸山丸」(三井物産船舶部、9,788トン)、「淡路山丸」(三井物産船舶部、9,794トン)とともにコタバルへ向かった[11]。3隻は佗美支隊、約5500名を乗せていた[13]。輸送船3隻は7日23時55分にコタバル沖に投錨し、上陸が開始されたが、8日3時半ごろから空襲が始まる[14]。輸送船は3隻とも被弾、「佐倉丸」には爆弾2発が命中し、3名が戦死した[15]。「淡路山丸」は炎上し航行不能となった[15]。6時30分、「佐倉丸」と「綾戸山丸」は避退を開始した[15]。翌日、船団はコタバルに戻って揚陸を再開し、同日中に完了した[16]。
「佐倉丸」は広東省虎門で応急修理を行い、宇品に戻った後、大阪鉄工所桜島工場で修理を受けた[17]。
それからジャワ攻略作戦に参加する[17]。攻略船団は2月18日にカムラン湾より出撃[18]。「佐倉丸」などは2月28日22時30分にバンタム湾に着き、3月1日0時までに泊地進入を終えて揚陸を開始したが、そのころバタビヤ沖海戦が生起し、船団に被害が発生した[19]。1時38分、「佐倉丸」の四番艙左舷に魚雷が命中[20]。さらに機関室左舷後部にも被雷し、「佐倉丸」は2時30分に横転して沈没した[20]。この時、「佐倉丸」の他に第二号掃海艇、「神州丸」(陸軍省、8,160トン)、「蓬萊丸」(大阪商船、9,206トン)、「龍野丸」(7,296トン)も被雷している[21]。この被害は海戦中に巡洋艦「最上」が発射した魚雷によるものと考えられる[22]。
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姉妹船
- 崎戸丸型(S型)貨物船
脚注
参考文献
外部リンク
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