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内田吐夢
1898-1970, 映画監督。 ウィキペディアから
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内田 吐夢(うちだ とむ、本名:内田 常次郎、1898年4月26日 - 1970年8月7日[2])は、日本の映画監督。
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経歴
- 1898年(明治31年)
- 1912年(明治45年/大正元年)
- 1920年(大正9年)
- 1922年(大正11年)
- 1926年(大正15年)
- 日活京都大将軍撮影所に入社。
- 1927年(昭和2年)
- 監督に昇進し、喜劇を中心に撮る。
- 1928年(昭和3年)
- 入江たか子をスカウトし、『けちんぼ長者』を撮る。
- 1929年(昭和4年)
- 小杉勇を主役に『生ける人形』を撮る。これ以来、小杉の強烈なキャラクターを効果的に使い、当時流行していた、左翼思想を盛り込んだ「傾向映画」の傑作を次々と生み出していく。
- 1932年(昭和7年)
- 1933年(昭和8年)
- 新興キネマに移る。
- 1936年(昭和11年)
- 1941年(昭和16年)
- 1945年(昭和20年)
- 1946年(昭和21年)
- 1949年(昭和24年)
- 人民解放軍が長春を奪還し、長春のスタジオに戻る。10月に中華人民共和国が成立し、新生中国における映画制作を担う後進の指導に当たる。

- 1953年(昭和28年)
- 10月、日本に帰国。
- 1954年(昭和29年)
- 復員し東映に入社。
- 1955年(昭和30年)
- 『血槍富士』を撮り、監督業に復帰。
- 以降、『大菩薩峠』、『宮本武蔵』シリーズのような時代劇大作を発表する一方、アイヌの問題を扱った『森と湖のまつり』や、部落問題を底流に描いた水上勉原作のサスペンス『飢餓海峡』など、現代社会の弱者を鋭く照射した作品も発表し続けた。


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評価
内田作品は近年では海外でも2005年のロッテルダム映画祭で特集上映されるなど、再評価が始まっている。
- 鈴木敏夫は宮崎駿に影響を与えた、日本映画の大きな流れとして、「黒澤明の強さ、木下恵介の弱さ」と、そして「内田作品の祝福されてこずに生まれた者の業」を指摘し、黒澤や木下と共に、内田作品の宮崎への影響を指摘し、鈴木自身も少年期からの内田作品のファンであり、鈴木は片岡千恵蔵のファンであることから特に内田&片岡時代劇が印象的だと、著書「映画道楽」( ぴあ (2005/4/1)。ISBN 4835615409)に書き記した[6]。
- 時代劇での「“罪”を背負いながら自分と同じ者たちを倒していく」という作風やテーマが石ノ森章太郎原作の仮面ライダー、特に石ノ森の原作漫画や旧一号編などの「ダークヒーロー」路線の仮面ライダーに影響を与え、息子の内田一作は監督として、内田有作は東映生田スタジオの所長とライダーのメインスタッフとして受け継がれている[7]。
- 映画秘宝の特集ムック本「洋泉社MOOK 鮮烈!アナーキー日本映画史 1959-1979」で飢餓海峡が紹介されたが、同評で「本作を見れば分かるはずだ黒澤明を上回る巨匠が日本にいたことを」「そして内田作品の全てに「差別」というテーマがあることにも気づくはずだ」と評し[8]、その黒澤は晩年に文藝春秋に発表した自身の「映画ベスト100」に内田の土を選んでいる[9]。また内田の宮本武蔵シリーズは黒澤の用心棒や椿三十郎を強く意識した作品であるとの評もある[10]。
- 深作欣二監督笠原和夫 脚本菅原文太主演の仁義なき戦いシリーズのカメラは内田作品の常連カメラマン吉田貞次が担当したが、吉田が担当した内田作品「血槍富士」が特に同シリーズに影響を与えたといわれており、吉田の証言と共にNHKの特集番組でも触れられ[11]のちに書籍でも出版された[12]。
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代表作
戦前
戦後



- 血槍富士(1955年)※復帰第1作
- たそがれ酒場(1955年)
- 自分の穴の中で(1955年)
- 黒田騒動(1956年)
- 逆襲獄門砦(1956年)
- 暴れん坊街道(1957年)
- 大菩薩峠(1957年)
- どたんば(1957年)
- 千両獅子(1958年)
- 大菩薩峠 第二部(1958年)
- 森と湖のまつり(1958年)
- 大菩薩峠 完結篇(1959年)
- 浪花の恋の物語(1959年)
- 酒と女と槍(1960年)
- 妖刀物語花の吉原百人斬り(1960年)
- 『宮本武蔵』シリーズ
- 宮本武蔵(1961年)
- 宮本武蔵 般若坂の決斗(1962年)
- 宮本武蔵 二刀流開眼(1963年)
- 宮本武蔵 一乗寺の決斗(1964年)
- 宮本武蔵 巌流島の決斗(1965年)
- 恋や恋なすな恋(1962年)
- 飢餓海峡(1965年)
- 人生劇場 飛車角と吉良常(1968年)
- 真剣勝負(1971年)※遺作
著書
家族・親族
妻芳子は新聞記者碧川企救男の三女、映画カメラマン碧川道夫の妹。映画監督の内田一作は長男、元東映生田スタジオ所長の内田有作は次男[5]。浮世絵研究家の内田千鶴子は次男有作の妻である。翻訳家の松田銑は甥。
系譜
- 内田家
内田徳太郎 ┏内田徳次郎 ┃ ┃ ┣━━━━╋内田弥三郎 ┃ ┃ こう ┣ゆき ┃ ┣━━━━━━━松田銑 ┃松田利七 ┃ ┗内田吐夢(常次郎) ┃ ┏内田一作 ┣━━━━━┫ 碧川企救男 ┃ ┗内田有作 ┃ ┏芳子 ┣━━━━┫ ┃ ┗碧川道夫 かた ┃ ┏[[三木露風]] ┣━━━━┫ ┃ ┗三木勉 三木節次郎
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脚注
参考文献
外部リンク
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