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出口明見
北海道出身の元騎手・元調教助手 ウィキペディアから
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出口 明見(でぐち あけみ、1949年8月20日 - )は、北海道出身の元騎手・元調教助手。
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経歴
1970年代
1970年3月7日に中山・矢倉玉男厩舎からデビューし、東京第2競走4歳未勝利・ホーオーリツチ(17頭中13着)で初騎乗[1]を果たす[2]。5月24日の東京第3競走4歳100万下・リュウタイヨウで初勝利[2]を挙げ、1年目の同年は8勝をマーク[3]。
2年目の1971年には初の2桁で自己最多の20勝をマークし[3]、3年目の1972年からは平地の騎乗に専念。1973年には2年ぶりの2桁となる10勝を挙げるが、1974年から1976年にかけては3年連続9勝と2桁に後一歩届かなかった[3]。重賞でもリュウズキ産駒のリュウフブキで1975年のカブトヤマ記念・愛知杯を共に2着と惜しかったが、1976年のカブトヤマ記念でイナボレス・スガノホマレを抑えて[4]初制覇[5]。
カシュウチカラの主戦として
1977年には2年目以来となる20勝を挙げ、同年から1979年まで3年連続2桁勝利を記録[3]。1977年の目黒記念(春)では8番人気のカシュウチカラで同期のグリーングラス・クライムカイザーを抑えて勝利し[6]、同年の京王杯AHでも14頭中11番人気ながらプレストウコウ・ディアマンテ・テイタニヤを破る[7]。天皇賞(秋)ではグリーングラス・トウショウボーイに先んじる4着[8]に入り、1978年はアメリカJCCでグリーングラスをアタマ差抑え[9]、続く目黒記念(春)ではトップハンデ59kgを克服して[10]連覇を達成[11]。天皇賞(春)では4着ジンクエイトに7馬身差の3着[12]、天皇賞(秋)ではテンメイ・プレストウコウの3着[13]と健闘[14]。
1980〜90年代
1981年の11勝を最後に1桁台が続き、1988年と1992年には自己最低の1勝に終わるが[3]、その間の1989年には師匠の定年を前に騎手(フリー)に転向。
1993年は9月26日の中山第8競走4歳以上500万下・キオイスマートが最後の勝利[15]となり、同馬に騎乗した10月16日の東京第12競走4歳以上900万下(12頭中8着)が最後に現役を引退[16]。
引退後
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騎手成績
主な騎乗馬
- リュウフブキ(1976年カブトヤマ記念)
- カシュウチカラ(1977年・1978年目黒記念 (春)、1977年京王杯オータムハンデキャップ、1978年アメリカジョッキークラブカップ)
脚注
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