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加瀬禧逸

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加瀬禧逸
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加瀬 禧逸(かせ きいつ、1873年明治6年)9月25日[1] - 1928年昭和3年)5月4日[2])は、日本の衆議院議員(政交倶楽部→猶興会→又新会→亦楽会→中正会[3])、弁護士

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加瀬禧逸

経歴

千葉県海上郡旭町(現在の旭市)出身。1894年(明治27年)、東京法学院(のち中央大学に改称)に入学したが、日清戦争で召集を受け、歩兵第2連隊に入った。翌年、威海衛守備のため再び召集された[3]1897年(明治30年)、東京法学院を卒業。1900年(明治33年)、弁護士試験に合格し、翌年に開業した。1918年大正7年)には東京弁護士会副会長に就任し、また日本弁護士協会理事も2回務めた[1]

1904年(明治37年)、第9回衆議院議員総選挙に出馬し当選。以後、5期連続当選を果たした。1917年(大正6年)4月、第13回総選挙で当選したが、衆議院議員選挙訴訟の結果、安房郡での選挙が無効となり、同年12月8日、千葉県知事により鵜澤總明吉植庄一郎木村政次郎関和知津田毅一鵜沢宇八柏原文太郎磯野敬土屋清三郎と共に当選証書が取消され議員を退職した[4][5]

国連大使等を務めた外交官加瀬俊一は五男。外交評論家加瀬英明は孫。

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脚注

参考文献

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