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加藤正次 (戦国武将)
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加藤 正次(かとう まさつぐ)は、戦国時代から江戸時代初期の武将。
生涯
織田氏に仕えた加藤正任(喜左衛門)の子で、当初は竹本氏を称する。伯父の家系が徳川氏の家臣だったため、永禄11年(1568年)徳川家康より招かれ、家名を加藤に戻すよう命じられている[1][3]。
元亀元年(1570年)姉川の戦いでは、味方に紛れて本陣に近づいた敵兵を斬るという武功があった。元亀3年(1572年)三方ヶ原の戦いで従兄の加藤正信が戦死したため、正信の妹を妻としてその家督を襲った。天正3年(1575年)長篠の戦いで敵将の首級を挙げた他、天正7年(1579年)小山城攻め、天正12年(1584年)小牧・長久手の戦いで武功があった[2]。
天正18年(1590年)小田原征伐に従軍。戦後に徳川氏が関東転封となると、武蔵国比企郡・上総国望陀郡に2,000石を与えられた。慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いでは使番を務め、戦後は京都所司代・奥平信昌属下として京中の警衛にあたる。翌年罪を得て蟄居となるが、翌年には東海道の諸宿場に下された伝馬定書に連署している[5]。慶長8年(1603年)家康の上洛の供奉に加わっている。慶長18年(1613年)65歳で没[1][4]。
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脚注
参考文献
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