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加藤正治
日本の顧問弁護士 (1871-1952) ウィキペディアから
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加藤 正治(かとう まさはる、1871年4月29日(明治4年3月10日) - 1952年(昭和27年)3月16日)は、日本の法学者。専門は民事訴訟法。東京大学名誉教授。第11代中央大学学長、初代総長[2]。日本郵船副社長加藤正義の養子になった。旧姓平林。岡野敬次郎に師事。弟子に兼子一、菊井維大など[3]。
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経歴
- 信濃国筑摩郡上生坂村(現・長野県東筑摩郡生坂村)出身。
- 1889年(明治22年) 旧制松本中学卒業。
- 第一高等学校卒業。
- 1897年(明治30年)東京帝国大学英法科卒業。
- 1899年(明治32年)12月民事訴訟法・破産法及海法研究のため欧州に留学。
- 1903年(明治36年)5月帰国と同時に東京大学教授に任ぜられる。
- 1904年(明治37年)法学博士の学位を受ける。
- 1912年(大正元年)峰岸棟太郎より大磯招仙閣を買い受け別荘とする[4]。
- 1925年(大正14年)帝国学士院会員となる。
- 1931年(昭和6年)3月停年により東京大学を退職。同6月名誉教授の称号を受け、その後学士院幹事、三菱信託監査役・取締役、枢密院顧問官、三菱本社監査役を務める。枢密院顧問官としては、日本国憲法などの審議に加わった。
- 1948年(昭和23年)7月学士院第一部長に、同月中央大学学長にそれぞれ選任された。
- 1949年(昭和24年)中央大学総長に選任された。
- 1952年(昭和27年) 3月16日死去。
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栄典
- 位階
- 1900年(明治33年)9月21日 - 従七位[5]
- 1901年(明治34年)7月10日 - 正七位[5]
- 1905年(明治38年)7月20日 - 従六位[5]
- 1907年(明治40年)10月30日 - 正六位[5]
- 1910年(明治43年)2月21日 - 従五位[5]
- 1912年(明治45年)7月10日 - 正五位[5]
- 1917年(大正6年)7月31日 - 従四位[5]
- 1922年(大正11年)8月30日 - 正四位[5]
- 1927年(昭和2年)10月15日 - 従三位[5][6]
- 1931年(昭和6年)4月15日 - 正三位[5][7]
- 勲章等
人物
趣味は俳句、俳画、茶道。俳号の犀水は、犀川に由来。松本市城山公園には頌徳碑があるほか、句碑が多数残る[9]。母校旧制中学の同窓会長や長野県人連合会長も務めた。大正6年、澤柳政太郎を総裁、加藤を副総裁として財団法人「日本アルプス会」が結成された。なお、弟子には商法学者の森清(中央大学名誉教授)がいた
松本高校誘致運動
1917年(大正6年)の高等学校旧制松本高校誘致運動では、横田秀雄・田中穂積らと連署で「高等学校設立建白書」を政府に提出し、松本への高等学校誘致に努めた[9]。
家族
- 妻・すみ(1882年生)は、養父・加藤正義の長女。
- 長男・正徳(1904年生)は暁星中学卒業後、フランス童話集を出版した[10]。
- 三男・正隆(1916年生)は、逓信省電気試験所、東京高等工業学校講師を経て中央大学文学部教授[11][12]。五洋貿易常務、千代田ビル管理、千代田管財創業[13]。妻・多美子は子爵松平忠寿の娘。長男の加藤正文(1943年生、慶応大学卒)は千代田ビル管理、千代田管財、日本ウイントン社長[13][14]。長女の喜美子(1941年生、聖心女子学院卒)は電通社長・吉田秀雄の二男八郎の妻[13]。
- 四男・正泰(1918年生)は東京帝国大学卒業後、山下汽船[11]。妻・照子は元日本郵船社長大谷登の娘。
- 二女泰子(1913年生)は法学者兼子一の妻。
頌徳展
生地の東筑摩郡生坂村では、これまであまり知られていない存在だった。そこで、村教育委員会では、2012年7月下旬に、加藤の「頌徳展」を初めて企画し、準備を進めている。同村上生坂には生家が残っており、そこで発見された資料その他を、村内の農村資料館で展示することになっている[9]。
主著
脚注
参考文献
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