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勢多型砲艦
かつて大日本帝国海軍が保有した砲艦の艦級の1つ ウィキペディアから
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勢多型砲艦(せたがたほうかん)は、日本海軍砲艦の艦級。同型艦4隻。
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計画
八八艦隊完成案 (大正9年度計画[4]) により建造された[7]。 帝国議会に提出された説明書によると、300トンの小型砲艦を4隻建造、予算は1隻で328,350円で総額1,313,400円[8]。
当時、日本海軍の河用砲艦は「伏見」「隅田」「鳥羽」の3隻あったが十分な数ではなく[9]、 一挙に4隻の建造となった[7]。 設計に当たっては各河用砲艦の使用実績を参考にした[9]。 従来の艦は低速で揚子江上流域の三峡の通過が困難だったため、勢多型では速力16ノットが求められた[9]。 また航続距離の延長も要望された[9]。
艦型
「鳥羽」をベースに若干大型化し、速力を向上させた艦型になった[4]。
船体は、速力が向上したために艦首にブルワークを設置して乾舷を高くし、同所にフラットを設けた[9]。 艦尾はスクエア・スターンとした[9]。
艤装は、上甲板上にハウスデッキを設け、中央部は機関室、機関室隔壁の前方は艦長室と士官室、後方は准士官、下士官の居住区とした[9]。 ハウスデッキ上、前部に上構 (上部構造物) を更に設けて海図室、無線室とし、その上を操舵室とした[9]。 また後方にも上構を設けて兵員室とした[9]。
機関
ボイラーはロ号艦本式混焼缶2基を装備した[10]。 圧力15.5kg/cm2の飽和蒸気[10]。 揚子江方面では石炭より重油の方が入手が容易であったため、後に重油専焼に改められたという[10]。 また同方面の夏場には缶室の気温・湿度が著しく上昇するため、この時に通風機械を増設した[10]。
主機は直立3気筒3段レシプロ 2基[6]。 また『日本海軍特務艦船史』(1997)では、直立式2気筒2段膨張レシプロ蒸気機械2基としている[4]。 なお「昭和十三年三月調艦艇要目等一覧表」では3気筒2段レシプロで3軸の記載がある[11]が、3軸は間違い[注釈 2]。
推進は2軸で回転数350 rpm、直径1,727 mm、ピッチ1,829 mm[10]。 舵 (3枚) の間の艦底にセレスを設けて推進器を置いた[9]。
兵装
1923年 (大正12年) 3月調べの「比良」の兵装は以下の通り[6] (計画または各艦の竣工時と推定される) 。
主要要目
表の値は主に「大正十二年三月調艦艇要目等一覧表 その一 軍艦」による「比良」の値[6] (計画値と思われる) 。 その他の伝えられる数値は以下の通り。
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艦型の変遷
1931年時の兵装は、40口径三年式8センチ高角砲 2門、留式機銃 6艇、探照灯 1基[5]。
上海事変 (1932年) 後に高角砲に防楯を装備[4]した他、13ミリ連装機銃1艇の装備した[12]。 また艦橋構造は周囲に固定壁を設置、戦訓により防弾板が装着された[12]。
1938年時の兵装は、三年式8センチ高角砲 2門、保式13ミリ機銃 2艇、留式7.7mm機銃 6艇、一一式軽機銃 1艇、探照灯 1基[11]。
大戦中の「勢多」は煙突を低めて、通風筒の形状が変更されている[12]。 1943年 (昭和18年) 夏の「保津」の機銃装備は、煙突後方の前部機銃座に7.7mm単装機銃2艇、後部機銃座に13ミリ連装機銃1基、操舵室上に13ミリ単装機銃1艇の装備が確認される[13]。
塗装
運用
製造は国内の播磨造船と三菱神戸が2隻ずつ担当し、中国へ分解輸送、現地で組み立てた。 竣工時から排水量が計画より超過しており、その後も排水量増大による吃水の増加にあった[9]。
その他の使用実績は良好で、揚子江流域の警備艦の中堅として長年活動した[9]。 各艦上海事変、日中戦争などに従軍し、太平洋戦争の末期に3隻が対空戦闘で被爆、大破した[4]。
同型艦
保津を除いた三隻は近江八景から名付けられている。
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脚注
参考文献
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