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北川芳男
日本のプロ野球選手 (1932-) ウィキペディアから
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北川 芳男(きたがわ よしお、1932年10月18日 - )は、千葉県佐原市[1]出身の元プロ野球選手(投手)・コーチ、解説者。
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経歴
プロ入り前
佐原一高卒業後、日本ビールに入社。エースとして都市対抗の常連となる。1956年の産業対抗では決勝に進出、熊谷組を無失点に抑え好投するが、9回裏サヨナラ負けを喫する。同大会では敢闘賞を獲得した[2]。同年の第2回世界野球大会に社会人野球日本代表として出場[3]。1958年の都市対抗では3勝を挙げて準決勝に進出するが、日本石油に惜敗[3]。
プロ入り後
1959年に国鉄スワローズへ入団すると、1年目から主力投手として活躍[1]。長年エースとして君臨していた金田正一を凌ぐ、37先発322回2/3を投げ、18勝20敗・防御率2.51(リーグ6位)の好成績をマーク[1]。桑田武(大洋)・村山実(大阪)らと激しい新人王争いを演じた(同年の新人王は桑田)。1960年(2年目)は4勝に終わる。1961年には開幕投手を務め、15勝を挙げて防御率もリーグ2位の1.90と復活。球団史上初のAクラス入りに貢献した。
1963年に宮本敏雄・高林恒夫との交換トレードで読売ジャイアンツに移籍[1]。このトレードは、投手陣の不振で4位に転落した巨人が投手力の強化を図ってのものだが、長嶋茂雄・王貞治が北川を苦手とし4年間で1本のホームランも打っていなかったことも理由と言われる[4]。移籍1年目に北川は11勝を挙げ、同年のリーグ優勝・日本一に貢献。翌1964年以降は8勝、3勝と勝ち星を減らし、1966年はコーチ兼任となるが一軍で登板機会がなく、同年に現役を引退した。
引退後
引退後も巨人に残って1967年から1969年まで二軍投手コーチ、1972年から1973年まで近鉄バファローズ二軍投手コーチを歴任。日本短波放送「たんぱストレートナイター」解説者も務めた。
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詳細情報
年度別投手成績
- 各年度の太字はリーグ最高
記録
- オールスターゲーム出場:3回 (1959年、1961年、1963年)
背番号
- 20 (1959年 - 1966年)
- 80 (1967年 - 1969年)
- 63 (1972年 - 1973年)
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参考文献
- 『日本プロ野球トレード大鑑』ベースボールマガジン社、2001年
脚注
関連項目
外部リンク
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