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北陸代理戦争

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北陸代理戦争』(ほくりくだいりせんそう、Proxy War in Hokuriku )は、1977年日本映画[1][2][3][4][5][6][7]。主演:松方弘樹[8][9]、監督:深作欣二[1]、脚本:高田宏治[10]東映京都撮影所製作[1]東映配給[1]

概要 北陸代理戦争, 監督 ...

概要

深作欣二監督による実録映画最終作[6][8][11][12]福井市三国町敦賀市石川県輪島市金沢市を舞台に、関西名古屋を巻き込んだ地元ヤクザの抗争を描く[13][14]オープニングクレジット前のナレーションで、「日本海が…荒れ狂う極寒の冬と、温暖平温の夏の両極端な顔を持つように、北陸の男や女たちもまた、その朴訥な外見から想像も出来ない激しい性格を内面に秘めている…中でも福井という土地は、石川・富山を合わせた北陸三県の商工業の中心地であって、古くからヤクザものの数が多く、過去、そこで繰り広げられた抗争事件は、どれをとっても、広島九州のヤクザものたちでさえ、顔を背けるほど、凄惨苛烈な戦いであった」と、オーラスに「俗に北陸三県の気質を称して越中強盗加賀乞食越前詐欺師と言うが、この三者に共通しているのは生きるためにはなりふり構わず、手段を選ばぬ特有のしぶとさである」のナレーションが流れる。

映画公開一ヵ月半後の昭和52年(1977年4月13日午後1時5分、本作品の主人公のモデルとなった川内組組長・川内弘が映画同様、地元の喫茶店で射殺された(三国事件)[3][4][5][7][15][16]。川内の襲撃された状況が、本作前半の襲撃場面と酷似しており[6][16]、まるで映画と現実が連動し[5][16][13]、映画が原因で実際に殺人事件を起こしてしまうという危なさで[4][5][6][7]、映画が進行中のやくざの抗争に影響を与えたという逸話のインパクトは、他の追随を許さない[4][7]。このため本作は実録ヤクザ映画の"極北"とも評される[17]。福井市郊外にあるこの喫茶店は川内が好んで通った店で[18]、店の内部は東映京都撮影所に作られたセットであるが[5][18]、外観は実際の建物である[18]。深作が実録路線から撤退したのはこの三国事件のためともいわれる[5][19][20]。深作は撮影後に川内から手紙を受け取っている。

予告編のBGMには、「狂った野獣」、「実録外伝 大阪電撃作戦」、「暴動島根刑務所」、「暴走パニック 大激突」の一部が使われており、「仁義なき戦い 頂上作戦」の映像が使われている[要出典]

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あらすじ

福井市にある暴力団富安組の若頭・川田登は、組長の安浦が競艇場利権を譲渡する約束を破ったため、安浦をリンチ。おびえた安浦が弟分・万谷を介して大阪浅田組・金井に相談したため、金井は手打ちの仲介名目で北陸進出にのり出すことになる[16]

出演者

スタッフ

製作

要約
視点

企画

企画、及びタイトル命名は、岡田茂東映社長[21]。当時岡田が漢字の題名を先に考え、出来たタイトルで映画を作れと現場に指示していた[21]。『資金源強奪』『強盗放火殺人囚』等も同じで[21]、本作も岡田が先にタイトルを作り、高田宏治に脚本を発注した[21]

当初は『新仁義なき戦い』シリーズの一編として制作が予定されていたが[3][4]、同シリーズを主演していた菅原文太が、本作の製作準備中に[7]、「実録としての"仁義なき戦い"はもう終わったと思う」などと発言し[7][22]、実録映画出演拒否の姿勢を打ち出していたことから[7][15][22][23]、別作品として制作・公開された[3][4]。菅原は『仁義なき戦い』に続いて「トラック野郎シリーズ」という当たり役を得て、新境地を拓いた実績があった[7]。深作は「彼(菅原)も飽き飽きしていたんじゃないですか[24]」と回顧している。

キャスティング

竹井役は渡瀬恒彦が演じていたが[6]、撮影中に雪中での自動車事故に遭い重傷を負ったため、急きょ伊吹吾郎に交代した[3][6][15][16]。映画館で上映されていた予告編では渡瀬の出演するシーンがある[4]。ノンクレジットながら中島貞夫は「現場は怪我人続出で封切に間に合わないと、サクさんからB班の監督を頼まれた。『コンテある?』『そんなもんねえよ』というやり取りがあった。恒さんとは『毎回これでやめるか』と言い続けていたんだが、あの事故が起きてしまった。それがあいつの運命なんだけど…いろんな意味で『北陸』は限界だったな。あれで動きが取れなくなってしまった。『狂った野獣』の挑戦が仇になってしまった。それだけが苦い思い出です」などと述べている[6][25]

高橋洋子は唯一の東映映画出演。高橋は「『北陸代理戦争』でようやく深作組に入ることができたんですよ。『宵待草』(日活)とかも全然色が違うし、斎藤耕一監督もモダンだから。今までがトランプだったとすると、東映は花札という色合いを感じましたね」「当時はテレビ映画も多かったから、撮影所にはビシッとかつらをかぶった人たちがたくさんいて。片や深作組の側を見ると本物か!という人たちがたくさんいて」などと述べている[3]。高橋は市川崑監督の『悪魔の手毬唄』(東宝)と撮影が掛け持ち[3]。東京との往復も大変で、若かったからできたという。高田宏治は「本当に高橋洋子には『極道の妻たち』に出てもらいたかった。あのすさまじさはないよね。惜しいことしたなと思いますよ」などと述べている[3]

遠藤太津朗は役名は違うが、『仁義なき戦い 代理戦争』『仁義なき戦い 頂上作戦』で演じた同じ菅谷政雄を同じようなキャラで演じる。

脚本

川内弘率いる川内組は1977年当時、全国14県に支部を置き、400名の組員を擁する日本有数のやくざ組織[4]。組長川内弘は“北陸の帝王”とも呼ばれた武闘派ヤクザだった[16]。しかし山口組内で最も大きな勢力を誇る菅谷組の下部団体という苦哀を味わい、次第に親分格の菅谷政雄菅谷組組長と反目し合うようになっていた[4]。脚本家・高田宏治にとっても「仁義なき戦いシリーズ」で名を馳せた脚本家・笠原和夫は超えねばならぬ壁[4]。『仁義なき戦い 完結篇』では笠原の降板という形で脚本を引き受けたが、シリーズ最大のヒットを記録したにも関わらず、当時の高田へ向ける周囲の目は冷ややかなものであったという[4]。高田は真っ只中だった暴力団抗争の渦中に飛び込んで取材を敢行[16]。新境地を開くために苦闘していた高田は『北陸代理戦争』の取材中、川内から「その人を倒さんと男になれん、それが北陸やくざいうもんでね…わたしはその人を倒して男になった」と聞いた[4]。川内のこの言葉を聞いて高田は感銘を受けた[4]。劇中でも金井八郎(千葉真一)の口から二度語られる。川内のいう「その人」とは菅谷政雄で、高田にとっての「その人」笠原和夫と完全にダブった[4]。本作クランクインの日に川内は菅谷に破門にされる[4]。菅谷の命を受けた襲撃部隊が川内を射殺し、事件を重要視した山口組執行部は一同名義で菅谷を絶縁処分とした(菅谷政雄#山口組からの絶縁と菅谷組の解散)。ホンのラストシーンに書いていた「北陸じゃ、くれた方がマトにされるんです、あんたも、長生きしたかったら、早い目に俺を殺した方がいいですよ」という台詞も「勝てない迄も、刺し違えることは出来ます、虫ケラにも、五分の意地って言いますからね」と和らげられはしたが[4]、高田脚本はモデルである川内と菅谷への配慮がまだ足りず、川内という素材への惚れこみが完全に裏目に出た[4]。シナリオは予言の書となり、二人は抗争の真っ只中へと突っ込んでいってしまった[4]

撮影

ほとんどのロケシーンは雪が振り積った薄暗い寒空ばかりで、観る者を不安にさせる[7]。冒頭、富安富蔵(西村晃)と中程で杉谷洋(岩尾正隆)、終盤で朴竜国(小林稔侍)ら3人を雪の中に生き埋めするシーンは、全て吹替えなしで実際に役者が演じており[6]、雪道で顔の近くを車が通過したりで、特に小林ら3人の生き埋めシーンは吹雪の中、長時間埋めたと見られる命懸けの撮影[7][6]。小林らの生き埋めシーンと、川田登(松方弘樹)が、万谷喜一(ハナ肇)の手首を日本刀で斬るシーンで、『仁義なき戦いのテーマ』風の音楽が流れる。

高田は「文太が降りたから、弘樹も意気込んでいたし、作さんも意地になっていたね。ヤクザものはこれで最後だと思っていたみたい。だからみんなこれにかけていたんですよ」「全部本当の話だから生々しいんだわ」などと述べている[3]。本作は現在進行中の抗争を映画化し、映画の製作が原因でモデルとなったやくざを刺激した[4][5][15][19][26]福井県警からの執拗な撮影中止要請を受けたのも関わらず[6]、飛び交う雑音を無視して岡田東映社長が「こういう生々しいのはええ」と製作を推し進めさせたといわれる[6][27]。『仁義なき戦い』を始め、深作欣二×笠原和夫実録映画はライブ中に取材した作品はなく[28]、高田は、笠原を越えたいという思いから抗争渦中の現地に飛び込み取材を敢行した[4][28]

ポストプロダクション

クランクアップは公開4日前の1977年2月22日[6]。残りの3日間でスタッフは不眠不休で編集作業をつづけ、フィルムが全編つながったのは公開前日[6]

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作品の評価

興行成績

福井県警の公開自粛要請で、肝心の福井県下では劇場公開されず[6]。大雪で撮影が難航したり、前述の主役、準主役の交替など撮影時から多くのトラブルにも見舞われ、「仁義なき戦い」というネームバリューを外されたこと、興行力のある菅原が降板したこと[4]、客層が変化したことなどの理由で配収が2億円に届かない記録的な不入りとなり、実録路線終幕の切っ掛けになったとされる[4][5][7][15][26]

作品評

脚本の高田宏治は「いま考えると、作サンが『仁義なき』でやり残したもんを、全部ここへ叩き込みたかったんやないか思う。北陸ちゅう厳しい風土に、ヒーローを立たせたかったんやろな。作サンの映画ん中で、ぼくはこれが一番好きや」と述べている[10]

名画座ラピュタ阿佐ヶ谷」支配人・石井紫は「裏話ばかりが先行し、本作のほんとうの魅力が忘れられがちです。人間は、信じていた相手から裏切られ、堪忍袋の緒が切れたとき、どういう行動に出るのか。また、裏切った本人は、自己防衛のために何をするのか。人間の本質を暴力団抗争に託して見事に描き出している。シェイクスピアが数々の史劇で描いたことを、脚本の高田宏治さんは90分で描いた」などと評している[6]。東映に本作のプリントはなく、2014年の高田宏治の特集の際、ラピュタ阿佐ヶ谷が自費でニュープリント作業を行い上映した[6]

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影響

しかし監督の深作、及び脚本の高田宏治は、その後大作を製作し、さらなる名声を得た[4][29]。深作は「実録路線」を切り上げ、様々なジャンルの大作を手掛けた。高田は『鬼龍院花子の生涯』や『極道の妻たちシリーズ』などの「東映女やくざ路線」に繋げた[4][19][29]。本作はその分岐点といえる作品であった[4][30]

に乗せられ、深作と高田は次の"花道"に出たが[4][28]、親分を失くして"奈落"に落とされた極道には次の"舞台"はなく、親分が命を落とす一因になった本作を川内組の子分たちは未だに許していないという[28]。事件を取材し2014年に『映画の奈落 北陸代理戦争事件』を刊行した伊藤彰彦は、それが一番辛かったと話している[28]

同時上映

脚注

関連書籍

外部リンク

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