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千家尊弘
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千家尊弘(せんげ たかひろ/そんこう、明治元年(1868年)1月8日 - 昭和15年(1940年)5月22日 [1]。)は出雲大社東京分祠の神職・宗教家。幼名は房麿 [2]。
概要
明治元年1月8日、島根県簸川郡大社町(現出雲市)に生まれる。島根の武士の家の長男で、幼少期から聡明で学問を好み、平田町の漢学者・雨森精翁のもとで数年間学ぶ。その後上京して東京専門学校(後の早稲田大学)に入学し卒業。卒業後すぐに大社教東京分院長に任じられた [2]。
宗教者として数多くの国葬・葬儀を司り、伊藤博文・大山巌・松方正義などの国葬では斎主を務めた。また、乃木希典、大隈重信などの葬儀の斎主も務めている。さらに、明治天皇や各宮家、貴族の葬儀にも祭主または副祭主として参加し、幅広い信望を集めた [2]。
その功績により、昭和3年(1928年)の御大典では社会功労者として銀杯1個を拝受した。
千家尊弘はまた、宗教活動だけでなく実業にも関心を持ち、 明治28年(1895年)12月10日には大社鉄道の設立に加わり、発起人17名のうちの1人となった。渋沢栄一も株主の一員であった。この鉄道会社は翌明治29年(1896年)に両山鉄道と合同して「大社両山鉄道」と改称するが、不況などの影響で明治31年(1898年)12月に解散した[3]。
宗教面では、出雲大社東京分祠の第2代分祠長(兼神道大社教副管長)を務め、明治22年(1889年)には麻布区材木町(現在の港区六本木七丁目)に神殿を移転するなど、東京での出雲信仰の拠点形成に尽力した。
晩年まで神道大社教副管長として活動し、昭和15年(1940年)5月22日に73歳で死去。 墓所は青山霊園。
なお、彼の妻・貞子の養父に男爵・千家尊福(出雲大社宮司・貴族院議員)がいる。
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参考文献
- 『昭和物故人名録 昭和元年-54年』(日外アソシエーツ株式会社、277p、1983年)
- 『島根県人物誌』(島根県人社、1929年、112p)
脚注
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