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南海丸
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南海丸(なんかいまる)は、鉄道省(後の日本国有鉄道)宇高航路に在籍した客船。同型船に「山陽丸」がある[6]。
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概要
「山陽丸」型は当時の瀬戸内海の連絡船では設備の優秀な快速船であり[7]、遊覧船のような船であった[6]。遊歩甲板前部が展望室となっており、その後部と上甲板に二等客室が、遊歩甲板後部と上甲板、下層甲板に三等客室があった[6]。1930年(昭和5年)に運搬車28両を搭載できるように改装された[6]。木部にはすべてチーク材が用いられ、畳敷きの二等客室に敷かれた絨毯は当時800円もしたものであり、洗面所や便所には大理石が多く用いられるなど、船の設備は贅沢なものであった[8]。
「南海丸」の旅客定員は以下のように変わっている[6]。
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船歴
「南海丸」は三菱造船神戸造船所で建造され[1]、1923年(大正12年)1月8日に起工[2]。同年4月18日に進水し[2][3]、6月25日に竣工[4]。7月3日に就航した[4]。
1930年(昭和5年)5月11日、貨客船「大信丸」(大阪商船、1,304トン)と衝突[9]。
1934年(昭和9年)9月22日、鉄道の不通に伴い「山陽丸」とともに宇野・相生間で臨時運行される[10]。
1937年(昭和12年)7月23日、「第二勢登丸」と衝突[11]。1943年(昭和18年)4月6日、女木島付近で座礁したが自力で離礁[12]。
同年5月13日、「南海丸」は宇野港で沈没した[13]。5月12日22時37分に「南海丸」は旅客778名を乗せて高松港を出港し、23時31分に宇野港に進入した[14]。港内に停泊していた「古城丸」(大連汽船、1,684トン)の西側を通過中、潮流に流されて弁天島沖の浮標に接近[14]。面舵を取って岩礁を避けた直後に「南海丸」は存在を知られていなかった岩礁に接触し、浸水した[13]。「南海丸」は桟橋へ向かい、23時43分から8分間で全乗客が上陸した[13]。その後、13日0時5分ごろに「南海丸」は沈没した[15]。「南海丸」は7月4日に浮揚され、修理されて10月1日に復帰した[12]。
1944年(昭和19年)10月23日、高松港口の北西約1600mで漁船と衝突[16]。
戦後はGHQの日本商船管理局(en:Shipping Control Authority for the Japanese Merchant Marine, SCAJAP)によりSCAJAP-N051の管理番号が付与されたが[2]、他船と重複するため、後にSCAJAP-N057に変更された[2]。
1948年(昭和23年)12月27日、運航廃止[17]。1951年(昭和26年)4月27日、高松港で係船される[18]。1953年(昭和28年)9月7日、「山陽丸」とともに広瀬産業に売却された[6]。
1956年(昭和31年)、藤田邦弘に売却され、主機を焼玉機関に変更する等の改装工事を受け、新生丸に改名[2]。1963年(昭和38年)、和洋汽船に売却[2]。
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脚注
参考文献
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