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原栄作
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原 栄作(榮作、はら えいさく、1879年(明治12年)11月2日[1] - 1958年(昭和33年)4月4日[2][3])は、明治後期から昭和期の医師、政治家。衆議院議員。位階は従五位。勲五等双光旭日章。
経歴
静岡県[2]庵原郡町屋原村(由比町を経て現静岡市清水区)で、豪農[4]・原茂左衛門の二男として生まれる[5]。静岡中学校(現静岡県立静岡高等学校)を経て[4][5]、1903年(明治36年[注釈 1])千葉医学専門学校(現千葉大学)を卒業[4][5]。その後、内務省永楽病院助手となり[5]、臨床学を研鑽した[4]。
1905年(明治38年)に帰郷して由比町北田で医院を開業した[3][5]。由比町消防組頭に就任し、組員の意識の向上、防災思想の町民への啓発に尽力した[4]。その他、由比町青年団長、庵原郡学校衛生会長、由比町森林組合長、同漁業協同組合長、同農業会長、静岡県森林組合連合会長、同医師会長、同学校衛生会副会長、同水産業会顧問、静岡県保健婦学校長などを務めた[2][4][5]。また日本医療団の結成の際には副団長に就任した[5]。
政界では、1933年(昭和8年)4月に由比町会議員に当選[4]。1936年(昭和11年)から1942年(昭和22年)まで静岡県会議員に在任し同参事会員も務めた[2][3][5]。1947年(昭和22年)4月の第23回衆議院議員総選挙で静岡県第1区に日本自由党公認で出馬して当選[6]したが、公職追放となり[7]衆議院議員を辞職した[2][5]。同年8月、県医師会会長も公職追放され辞職した[5]。
公職追放解除後には、静岡県教育委員を務めた[5]。1958年死去。死没日付をもって従五位に叙され、勲五等双光旭日章を追贈された[8]。
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親族
- 兄 原保太郎 (静岡県会議長)[4]
脚注
参考文献
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