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名倉次
日本の政治家 ウィキペディアから
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名倉 次(なぐら やどる、1858年(安政5年)7月12日[1][2]) - 1940年(昭和15年)4月29日[2])は、日本の政治家、衆議院議員(1期)。
経歴
播磨国飾西郡(のち兵庫県飾磨郡置塩村→夢前町、現・姫路市)の旧家(農家)に生まれる[1]。1878年、神戸師範学校卒[2]。同窓に松岡鼎がいる。兵庫県会議員、同常置委員、県農会副会長となる[1][2]。
1894年3月の第3回衆議院議員総選挙において兵庫7区から立憲改進党から立候補して当選した[3]。1894年9月の第4回衆議院議員総選挙で再選した[4]。衆議院議員を2期務め、1898年3月の第5回衆議院議員総選挙では進歩党から立候補したが落選した[5]。1898年8月の第6回衆議院議員総選挙では憲政本党から出馬したが落選した[6]。1940年に死去した。
家族
- 長男 ‐ 奉天会戦で戦死[7]
- 五男・東郷伍郎(1894-) ‐ 兵庫県会議員。子に東郷健
- 六男・太田陸郎(1896-1942) ‐ 陸軍大尉、民俗学者。兵庫県立姫路中学校を経て同志社大学政治経済部に進学、1921年同大法学部経済科卒。大阪商船系列の「富島組」入社、志願兵として1年ほど入隊するも健康を害して帰郷、1923年網干町の貝ボタン製造業・太田勝治[8]の養嗣子となり、翌年より兵庫県職員、1938年陸軍少尉として召集され武漢作戦に参加、中尉となり南方戦線に志願転出、帰任途中台湾上空で遭難。県庁時代から兵庫の民俗学研究に貢献し、柳田国男らとも親交、著書に『支那習俗』などがある。[9][10]
脚注
参考文献
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