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嘉陽門院越前

鎌倉時代初期に活躍した歌人 ウィキペディアから

嘉陽門院越前
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嘉陽門院越前(かようもんいんのえちぜん、生没年不詳)は、鎌倉時代初期の女流歌人女房三十六歌仙の一人で、伊勢神官大中臣公親の娘。伊勢女房七条院越前とも呼ばれた[1]

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伊勢の神事(皇大神宮 神御衣祭)

経歴

後鳥羽院の生母である七条院藤原殖子に出仕、後に後鳥羽院息女嘉陽門院に出仕した。1200年(正治2年)の『院後度百首』、1202年(建仁2年)の『千五百番歌合』に抜擢され、後鳥羽院歌壇で活躍。『新古今和歌集』以降の勅撰集歌合等に作品を残している。後嵯峨院主催の1247年(宝治元年)の『院御歌合』にも出詠しており、歌人として長期にわたる活動が窺える。

逸話

  • 1247年(宝治元年)『院御歌合』(『仙洞十首歌合』『百三十番歌合』とも)は、後嵯峨院の命により、二十六人の歌人が十題十首を詠進し、評を付けられたものだが、この歌合において嘉陽門院越前は、御子左家の総帥たる藤原為家に対して、勝9持1[2]という異例の圧勝を収めている[* 1]

作品

勅撰集
さらに見る 歌集名, 作者名表記 ...
定数歌歌合
さらに見る 名称, 時期 ...
私撰集
  • 三百六十番歌合(1200年(正治2年))
    • 「越前 院女房」名で9首
私家集
  • 家集は伝存しない。

脚注

参考文献

関連項目

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