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久我通光

鎌倉時代前期の公卿・歌人。源通親の三男嫡男。久我家の祖・5代。従一位・太政大臣。子孫は久我家、六条家。子に道朝(仁和寺、権僧正、石山座主) ウィキペディアから

久我通光
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久我 通光(こが みちてる)は、鎌倉時代前期の公卿歌人内大臣源通親の三男であるが、後鳥羽天皇の乳母・藤原範子所生のため嫡男の扱いを受ける事になった。範子の連れ子で異父姉の承明門院土御門天皇を生んでいる。一般的には久我家の祖と考えられている[1]。官位は従一位太政大臣後久我太政大臣と号す。新三十六歌仙の一人。久我家5代。

概要 凡例久我 通光, 時代 ...
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略歴

正治3年(1201年)に公卿となり、異母兄・堀川通具を越して昇進し、兄が任ぜられなかった右近衛大将を経て建保7年(1219年)には内大臣に任じられる。承久の乱の折に後鳥羽上皇の皇子・雅成親王の義父だったことや、北条義時追討の官宣旨発給に太政官の上卿(担当公卿)として関わったことから、鎌倉幕府から恐懼に処せられ籠居を命じられる。だが、その後も密かに隠岐国の後鳥羽上皇と連絡を取り合っていたと言われている。後に後嵯峨天皇の大叔父として、弟・土御門定通と共に権勢を振るい、寛元4年(1246年12月24日西園寺実氏の後に従一位太政大臣に昇った。

公卿に任ぜられた年と同年、歌合(「千五百番歌合」)への参加を許されて『新古今和歌集[2]等の勅撰和歌集に収められる等当代を代表する歌人の一人でもあり、また琵琶に優れていたなど才気に溢れた人物として知られた。

また『徒然草』第100段では、水を飲むために主殿司に「まがり」に入れて持って来させる通光の姿が描かれている。

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官歴

以下、『公卿補任』と『尊卑分脈』の内容に従って記述する。

晩年に久我家の家領のほとんどを後妻「西蓮」に与えたことから、通光の没後に後妻と先妻の子である嫡男久我通忠との間で家領相論が発生して大きな禍根を残した。すなわち不利となった後妻側は鎌倉幕府との関係が深い有力公家である西園寺家に久我家領を譲ることを条件に庇護を求めたために久我家は所領をほとんど失い、没落寸前となった。だが、通忠の後妻が有していた祖父平頼盛の旧領(「池大納言家領」)が久我家に継承される。この所領は鎌倉幕府によって保障された関東御領としての性格を持ち、それを足がかりとして久我家の再興が図られた。

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系譜

脚注

出典

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