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土佐光芳
江戸時代中期の土佐派の絵師 ウィキペディアから
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土佐 光芳(とさ みつよし/みつふさ、元禄13年6月5日(1700年7月20日) - 明和9年8月29日(1772年9月26日))は、日本の江戸時代中期に活躍した土佐派の絵師。幼名は藤満丸。法名は常覚。名は「みつふさ」ともよむ。

略伝


土佐光祐(光高)の子。幼少より画技を認められていたが、宝永7年(1710年)数え11歳の時、祖父・土佐光成、その4ヶ月後に父光祐が相次いで亡くなり、幼少にもかかわらず従六位上・絵所預となって家督を継ぐことになる。正徳6年(1716年)17歳で正六位下・左近衛将監、享保10年(1725年)26歳で従五位下、翌年大蔵少輔、享保16年(1731年)32歳で従五位上、元文2年(1737年)38歳で正五位下、元文4年(1739年)弾正少忠、寛保3年(1743年)左京少進と順調に位階を上げており、以後土佐家歴代では光芳が先例となって安定した位につくようになる。また土佐光起以来、絵所預には任じられてきたものの安定した家禄はなく、仕事に応じた画料のみ受け取る状態だった。しかし、享保9年(1724年)光芳の嘆願が認められ、御月扇料として御台所10人扶持方となり安定した財政基盤を得ることになる。更に、幼少の経験から、長男・光淳が本家を継いだ後、次男・光貞に分家させ組織を拡大する方策を取った。これらの方策により土佐家は以後安定した基盤を得ることになり、幕末まで続くことになる。
一方、享保19年(1730年)徳川吉宗の依頼で老中松平忠周用人・山村源八なる者から書状を遣わされ、光芳は土佐家に伝えられた絵巻と屏風の粉本目録「土佐家所持絵巻目録」を提出する。この際光芳は書状が届いた7日後に返信していることから、将軍の求めに応じて慌てて作成したというより既に整理されていたものを清書しただけの可能性が高く、光芳が自家の粉本をよく把握していたことを物語る。その後、この目録を元に吉宗の求めで粉本を送ったらしく、その目録「将軍御覧絵本目録」も残されている。また、「土佐派系図」という家系図を作成、血縁や時系列的に辻褄が合わない箇所も見られるものの、自家の正当性を確認する意図があったと考えられる。元文3年(1738年)桜町天皇の大嘗会に悠紀主基屏風を描く栄誉を授かる。延享3年(1746年)眼病を患ったため職を辞し、剃髪して常覚の法名を名乗る。明和9年(1772年)没、享年73。法名は貫綜院安誉練諦常覚居士。墓所は知恩寺。
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作品
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脚注
参考文献
外部リンク
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